あの日の約束を今もずっと憶えてる

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――10年前のあの日から、雪を見ると彼女のことを思い出す。  朝、目が覚めて家の部屋から外を眺めると、雪がハラハラと舞っていた。  自然と記憶が10年前、大学生だった頃を辿る。  あの日の翌朝、避難小屋で一人で目を覚ました俺は前日とは打って変わって晴天の雪山を無事に下山した。  幸いワンゲル部の仲間たちは前日に無事に下山できていたようで、少々の騒動を起こしつつも俺たちは大学を卒業し社会人となり、あの雪山での出来事は少しずつ過去の出来事へとなっていった。  胸を抑えながら立ち上がり、シンクで蛇口から直接水を飲む。早朝の冷たい水は痛いくらいだったが、それで人心地着いてベッドに腰掛ける。  スマホを取り出してメールやメッセージを確認する。2年前に仕事を辞めて、小説投稿サイトに1つの小説を投稿した。  それは、冬山で遭難した大学生が体験した一晩の不思議な出来事。それは小説としてというより、かつて俺の身に起きたことをこの世界のどこかに形にしたくて始めたことだった。  最初のうちは「小泉八雲の二番煎じ」みたいな感想ばかりだった。それでも気にせずに書き続けていくと不思議なことに人気が出始め、ついに書籍化もされることとなった。売り上げも上々で、メディアミックスの話や続編、新作のオファーも来ている。  雪の中を手探りで進んでいたような人生が、急に拓けたような感じがした。 ――けれど、何もかも遅すぎた。  鍵をかけていない部屋のドアが音もなく開くと、白装束の女性が姿を現した。  長く艶やかな黒い髪に透き通るような白い肌。10年前と何一つ変わらない容姿。  だけど、その表情は醜く歪んでいた。  女性は無言のままスッとこちらに近づいてくると、ベッドに腰掛けたままの僕の首に手をかけた。 「久しぶりね、フユキ君」 「久しぶり、ユキナさん」  首に冷たい圧力を感じながら、10年前に会ったきりのユキナさんと挨拶を交わす。そんな態度か気に障ったのか、首にかけられた手の力がぐっと強まる。 「約束したはずよ。あの夜のことを誰かに言えば、殺しに来ると」  ユキナさんの手の力が強まり、首がギリリと締め付けられる。肺の奥の空気がカハリと漏れた。 「貴方は約束を守る人だと思ったけど、残念」  ユキナさんの手の力は緩むことなく、意識が少しずつ遠のいていく。  残り少ない力を振り絞って、口を開く。 「……約束を、守ってくれてありがとう」  やっとの思いで口にした言葉に、戸惑うようにユキナさんの力が弱まる。酸素を求めて肺が喘ぎゴホゴホと咳き込んだ。俺の首から手を放したユキナさんは、そんな俺を困惑したように見つめていた。 「貴方、まさか」 「こうすれば、もう一度会えるんじゃないかと思ってた」 ――あの夜のことを誰かに伝えたら、どこにいようと殺しに行く。  その言葉を信じて、ユキナさんとの出来事を拡散した。ユキナさんがどこにいても気づくように広く、遠くまで届くように。 「誰にも言わずに抱えてるうちに、あの日の出来事が本当にあったことなのか、自信が無くなってきて」  春になってから、あの山を尋ねてみたが避難小屋を見つけることは出来なかった。地元の人に話を聞いてみても、そんな避難小屋など存在しないという話だった。それならば、あの夜の出来事は、吹雪の中で見た幻だったのだろうかと徐々に自信がなくなってきた。  それこそ、どこかで呼んだ小泉八雲の小説を都合よく再編成した雪女の幻想だったんじゃないかと。 「わけ、わかんないよ。私の存在を確かめるために、あの夜の話を誰でも読めるようにしたの?」  いや、とユキナさんに向かって手を伸ばす。腕に触れると、冷やりとした感触。ああ、そうだ。あの夜、頬に触れたのと同じ感じだ。 「最期に、お礼を言いたくて」  ユキナさんの顔に浮かぶ困惑の色が強くなる。 「俺さ、本当はあの雪山で死ぬ運命だったのかも。ユキナさんのおかげで生き延びたけど、それを帳消しにするように変な病気にかかっちゃって」  ユキナさんに触れるのと反対の手でお腹を押さえる。3年程前、腹部に難治性の病巣が見つかった。じわじわと身体を蝕まれ、その1年後には仕事を続けることができなくなった。  段々と外出が難しくなるなか、小説投稿サイトで発表したユキナさんの話は俺にとって残された数少ない願いだった。 「雪山で遭難したあの日、俺はユキナさんに救われた。それに、あの日食べた山菜汁は今まで生きてきた中で一番旨かったって思ってる」  ユキナさんの腕に触れる手に力を込めようとするけど、上手くいかなかった。胸が苦しい。こうして体を起こして話しているだけでも体力を消耗していく。それはもうこの体が長くはないということを如実に示していて。 ――だけど、ギリギリで間に合った。 「だから、最期にどうしてもお礼を言いたかった。あの夜は結局言えずじまいだったから」  一言話すだけでも苦しかったけど、不思議と心は穏やかだった。ずっと心残りだったことがようやく果たされたからだろうか。ユキナさんは幻ではなく、ずっと伝えたかったことを伝えることができた。 「……言いたいことは、それだけ?」  ユキナさんの声は相変わらず冷たい響きを纏っている。当然だろう。これはユキナさんには何の関係もない、ただの俺のワガママだから。 「あと一つだけ」  だから、せめて最後にもう一つだけ伝えておくべきことがある。 「こんなことに付き合わせてごめん」 「こんなことって?」 「病気で苦しみながら逝くなら、ユキナさんに殺された方がマシだなって思ってた。そんなこと背負わせて――」  言葉は途中で遮られた。ユキナさんの口が俺の口を塞ぐ。  でもそれは、キスみたいなロマンティックなものではなくて、人工呼吸のような作業的な感じで。そのまま身体の奥の方へと冷気が入り込んでくる。  それは命の温もりとは正反対の寂寥感を帯びた空気。これで全て終わりだからか、身体の奥に居座り続けた苦しみが今ばかりは大人しくなっていく。  最期の時を雪の日に迎えることができる。そう考えたら悪いことばかりではない―― 「……あれ?」  ユキナさんの顔が離れていくのを、名残惜しいと感じた。  つまり、俺はまだ生きている。それだけじゃなくて、身体の奥の方から活力が沸いてくる感じがした。 「貴方を蝕む原因を凍らせたわ。完全になくしたわけじゃないけど、生きていくには不自由しないはず」  そう言ってユキナさんは俺のお腹の辺りに手を当てる。ヒヤリとした感触をさっきよりもはっきり感じる。  ユキナさんの言葉の通り、ずっと苛まれていた息苦しさも胸の痛みも感じなかった。 「俺は、約束を破ったのに」 「それは今でも怒ってるけど。でも、今の貴方から生気を奪ったところで腹の足しにもならないわ」 「……俺が元気になったら、俺を殺す?」  こちらとしては真面目に聞いてみたつもりだけど、ユキナさんはちょっとムッとしたように両手でパシリと俺の頬を挟む。ひんやりとして気持ちがいいなんて言ったら、もっと怒るだろうか。 「そこまで趣味悪くないつもり」 「なら、どうして」 「私はね、ずっと一人で生きてきた。冬は死と眠りを司る季節。その化身たる私は孤独に生きるべきだと思っていた」  ユキナさんがふっと息を零す。 「だけど、冬を好きだという変わった人と過ごしてみるのも、面白そうだと思ってしまった。雪女失格ね」  一拍遅れて言葉の意味を理解する。俺はまたユキナさんに命を救われたらしい。 「でも気をつけて。これは呪いでもあるから」 「呪い?」 「私が離れたら、フユキ君の中の氷は溶けて、病巣は再び活動を始める」  そう言って笑うユキナさんにほんの少しだけ薄ら寒さを感じた。  だけど、そもそもユキナさんに二度救われた命だ。ここから先はユキナさんの為に生きるくらいどうってことない。 「どうしたら、ユキナさんはずっと傍にいてくれる?」 「そうね。退屈したらどこかに行っちゃうかも」  今度はユキナさんはイタズラっぽく笑った。その笑顔に簡単に惹きつけられて、俺の頬に当てられているユキナさんの手は冷たいのに、グッと顔が熱くなる。  一つ、訂正。どうってことないどころか、これはとんでもない幸運かも。 「ね、フユキ君。これから何かしたいことある?」 「そうだなあ……病気になって、体力落ちて。冬山にもずっと行けてなくて」  もう二度と山になんて登れないと思っていたけど、元気になったらどうしてもやりたいことがあった。 「一年間かけて体力つけるからさ。そしたら、あの小屋でまたユキナさんの山菜汁が食べたいな」  あの日と同じように一瞬キョトンとなったユキナさんがぷっと吹き出すと、表情を崩す。 「じゃあ、頑張らないとね」 「まだまだ春は遠そうだなあ」  3年分のリハビリは一筋縄ではいかないはずだ。苦笑が浮かぶのを自覚しながら小さく零すと、頬に当てられたユキナさんの手に小さく力が込められた。ユキナさんの顔が近づいて、唇に微かに冷たく柔らかい感触。 「大丈夫。雪解け水が芽吹きを育み、夏の雨となって秋の実りをもたらすように、私はずっと見守ってるよ」
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