クラン(1)

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クラン(1)

 棚には不思議なものがしまわれていた。  マッチ箱をふくらませた大きさの、長方形。  固く厚い表紙に表と裏をくるまれている。中には色あせた紙の束が何十枚も重なり、ばらばらになってしまわないように、喉の部分でしっかりと糸で縫われ繋がれている。刺繍の手仕事のように。手に取って真ん中を開くと、細かい文字がびっしりと記されていた。くせのある手書きのものもあれば、活字で印刷されているものもあった。たまに白紙が混ざっていたり、絵や図表が挿入していたりするものもあった。  それは、bookだった。  もうこの世界の地上からは消えてしまったbookだ。ぶっく、と奇っ怪な発音する。一冊をbookと呼び、二冊以上はbooksと複数形に綴られた。この建物には、約五万冊のbookがあるので、booksssssssssssssssssss……と、いくらsがあっても、円周率のごとくに足りない。  昔の人は、こういうbooksを集めた部屋のことを書庫、書斎、図書室、図書館とさまざまに呼んだそうだ。  このヘラクレス図書館には、炭火を冷ました後のようなにおいがいつも微かにした。それは、木の棚に縦に押し込まれた沢山のbooksから、煙のようにたちのぼってくるものだ。  狭い図書館だった。筆を千回も重ねて描かれたというギリシャ神話の神々が、十何柱もいて、彼らは天井画に住まってクランを見下ろしてくる。中央で雄々しく青空をあおぐのは、ヘラクレス。ヘラクレスの間とも呼ばれる、横長の小部屋には、bookshelfと呼ばれる木の箱が、壁に沿ってせせこましく並んでいた。梯子を使わなければ届かない、何十段もある棚だ。  西大陸の半島、ドリチエ国の北の果てに、この場所はひっそりと息をしている。二千年も前の大昔に没落した貴族がつくった、小さな古城の一部分だ。国を横断する広大なドリー川をまたぐように石英の石段が積み上げられて強大な要塞がつくられ、中央の小高い丘に白亜色の城が築かれた。  第二次世界大戦の戦火によって、その大部分が攻撃を受け、跡形もなく崩れた。今では、城下街のメインストリート、チエリエン通りに並ぶ薄桃色で統一されたアパルトマンのほかに、城壁の一部とその傍にあるヘラクレスの間、つまり今、クラン・ベリーがいる場所が歴史的建造物として補修工事・補修工事を重ねて、かろうじて首の皮一枚でつながっているのだ。  しかしその余命もいくばくか。あとは時間の問題となった。 クランは十六歳になったばかりの女子高校生で、ドルチエ国生まれドルチエ国育ち。生粋のドルチエ人だ。家からいちばん近い、ぱっとしない公立高校に通っている。  去年からヘラクレス図書館保存委員会の正式なメンバーに認められて、ここでアルバイトをしている。仕事は、主にふたつある。ひとつめは部屋の掃除。大理石が敷き詰めてある床の拭き掃除をして、十八世紀のものを現代の技術で復元した豪奢なシャンデリアの入念な手入れをする。『オペラ座の怪人』の舞台のように、いちいちシャンデリアを床まで降ろして舞い上がるホコリと格闘し、また天井までテコの原理で持ち上げるので、細身の少女には骨だ。なにしろ、かりにも名のあるルーデンブルク王族貴族が住んでいたれっきとした城なので、天井がやたらめったら高い。モップをうんと高く持ち上げても届かないのだ。  それから、ふたつめの仕事。ほんとうはこちらがメインだ。大量のbooksが痛まないように、端から順番に取り出し、ページを広げて窓際に置き、日光に当て、日干しにする。これを曝書という。虫食いがあったら虫を排除し、紙をできるかぎり元のとおりに修正する。いくら保存に力を入れても、この世に永遠のものはないので(太陽が白色矮星化したら、いずれみんな死んでしまう)、いつかはこの輝かしい部屋もbooksも朽ちるだろう。それでも、たとえ一日でも寿命を長く引き伸ばしにするのが、保存委員会の仕事だ。  クランは学校が引けると、部活にも入らず、友人とおしゃべりもせずに、放課後、一人で毎日ここにきて、一人で掃除をして、好きなだけbookのページを開いて、読むふりをする。週に一度、トラックで運搬されてくる灯油は無限ではないので、ストーブの火は節約。冬の寒さに耐えきれなくなったら、戸締りをして家に帰る。それが彼女のささやかな日課だった。他のメンバーは遠方に住んでいるため、めったに訪れない。仕事や子どもやペットの世話に追われる大人たちの口癖は、『時間が無い』。  クランはおしゃれっ気のない、そばかすだらけの、鼻の低い、街を見渡せばそのへんにいるような少女だった。小麦色の髪を三つ編みにしばって、いつも手には古ぼけた紅い表紙のbookを携えている。それは彼女のお気に入りだった。  しかしもう、ヘラクレス図書館に残っているbookに書かれている文字は、一文字も読めなかった。彼女だけではない。誰も。けっして。
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