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2月14日の昼、とくに何もない日だと思ってアパートで一人でカレーを食べていると、ピンポンと玄関のインターホンが鳴った。
昨日、雪がそぼ降る中を薄着で走ったせいか、珍しく長い夢を見たうえ熱はないものの体がだるくてあまり動きたくない。
ピンポンは鳴りつづける。誰かの訪問の約束はない。
どうせ勧誘か営業だろうと居留守を使おうとしたところで、「あたしよ」という女性の声が聞こえて思わず立ち上がった。
聞き覚えはないが、きれいな声だ。
「あたしよ、久しぶりね。いえ、昨日ぶりかしら」
そんなことを玄関ドアの向こうから言っている。昨日ぶりとは? 思い当たる節はない。
ただ、嫌な感じはなかった。むしろ惹かれる。
なんとなく、近所のなぜかいつも薄着でどこかけだるげなのに実は面倒見のいいお姉さんの想像を一瞬してしまったが、そんな知り合いはもちろんオレにはいない。妄想だ。
やはり勧誘か営業か、と思ったものの今朝の夢が蛇の夢だったのを思い出した。
頭より高い位置で、光る蛇がぐるぐる回転して輪のようになっているのをオレがぼうっと見つめているだけの意味のわからない夢。
蛇が夢に出ると金運が上昇するという話を聞いたことがあった。もし、夢の蛇が幸運をもたらすのだとしたら、玄関の向こうにいる者が関係しているのかもしれない。仕事をやめて平日の昼からぼんやりしているオレにとって、金が手に入るチャンスは逃せなかった。
好奇心でドアを開ける。
誰もいない。
「ここよ」
声が聞こえた足元へ視線をやると、地蔵が立っている。
小柄で、石でできた灰色の肌につるりとした頭、丸い顔に柔和な笑みを浮かべた「お地蔵さん」だ。
「お、お地蔵さん?」
それもかつて通っていた小学校の近くに立っている地蔵だった。首に見覚えのあるひだの多いかわいらしいシュシュをつけているからわかる。シュシュは元々は髪飾りだ。
非常にシュールな光景だった。地蔵が歩いて家の前まで来るのは昔話の世界だけ――なのに、いる。
夢? 夢かと思ってこめかみを拳で小突いてみたが、痛い。リアルだ。
でも、痛みがある夢もあるのではないか……?
そんなことを考えてる間に、地蔵は「上がるわね」と勝手に部屋に入ってきた――と思ううちに、地蔵の背がむくむくと伸びて知っている男の姿になった。
「お地蔵さん……じゃない、おまえ、高村か?」
高村は小学校からの友人で、散髪代を節約するためにいつもバリカンで頭を刈っていて、いつも灰色の服を着ていた。それで小学生の時に「地蔵」というあだ名がついた。今目の前にいる高村は白いシャツを身につけていて、髪はざらりとした手触りの坊主頭より少し伸びていた。
「久しぶりだな」
高村はあっけらかんとしている。
「あれ? え? いや、今……お地蔵さんに見えたんだが? あだ名じゃなくて道に立ってるお地蔵さんの方。女の人の声も聞こえたのに……」
「女がバレンタインデーにおまえのアパートに来るわけないだろ」
「辛辣! まあそうなんだけど……。おまえも昨日ぶりどころじゃない、顔を合わせるのは五年ぶりくらいか? 一体どうした?」
高村と直接話すのは高校二年の時以来だった。高村は仲間内で一番早く、中学を卒業してほどなくして地元を離れて東京で一人暮らしをしていた。
「ちょーっと頼まれてな。なんか、おまえデカイずうたいで大泣きしながら雪道走ってたんだろ? おまえの方こそ何があったんだよ」
「……誰から聞いた?」
「小学校近くの地蔵だよ」
「はあ?」
「おまえ、昨日、地蔵の前で泣いてただろ。ここへ来たのも地蔵の頼みだよ。雪のひどい日にあたしたちを訪ねてきてくれてうれしかったって言ってたぞ」
「お地蔵さんが?」
「そう」
「高村、おまえはお地蔵さんのなんなわけ?」
「メッセンジャー?」
あははと高村が笑った拍子に欠けた歯がのぞいた。小学校の時からそうで、前歯が一本抜けていた。そして高村の話は当たっていた。
たしかにオレは昨日、雪がそぼ降る中を走っていた。雪で視界が白く奪われ、上着から出ている鼻と耳と手が冷えて痛んだが、まあどうでもよかった。
小学生の頃からのクセみたいなものだ。むしゃくしゃした時など、地蔵が並ぶ空き地へ行って独り言をつぶやいたり、虚空へこぶしを突き出したりすることがあった。学校へ向かう道を少し逸れただけの場所にあるのもよかった。その場所はまばらな木々で囲まれていて、木陰に入ってしまえば姿を隠せた。なので、一人でぼやいたり気持ちの整理をするのに都合がいい。言わば心の憩いの場で、それは大人になっても変わらなかった。
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