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高村に話してほっとしたところで、ふいに高村の身体が一瞬、煙のように揺らいだように見えた。
「たぶんだけど、これ、夢だよな。お地蔵さんがオレのアパートにやってくるわけないし、おまえがそのメッセンジャーなんてやるわけない」
「どうかな」
「夢と言えば、朝さ、夢の中で頭の上で金色の光る蛇がぐるぐる回ってたんだけど、これ吉夢かな? いいことあると思う?」
「さすがに知らねえ」高村がまた歯を見せて笑った。「まあ、いいことはあるだろうな。バレンタインデーにアパートまで来る女はいないかもだが、電話をかけてくる女はいると思う。おまえの新しい母さんとは別の、若い女が」
「いない、いない。心当たりないもん」
「いるよ」
オレもなぜか笑いが込み上げてきた。高村につられたのかもしれない。胸のうちにぼんやりとあった靄のようなものが消えつつあるのを感じた。
「じゃあさ、夢ならこれも聞いてみるか。もしかして……高村、おまえは死んでるの?」
――高村は死んでいるのか。
口に出して言うと、高村がこのまま消えてしまいそうで迷ったが、言った。
ここしばらくの間、オレの胸のうちにあった不安の一つだった。
「どうかな」高村は首を傾げた。「死んでないと思う。まだね。だって、死んだらあの家に引き戻される。それは嫌だね」
「こっちから連絡もつかないし、一月以上前から行方知れずって言われてるけど本当か? そういう話題をさ、ネットで見かけて、オレもずっと気になってた。皆心配してる」
上京した高村は雑誌で漫画連載をはじめたが、それは単行本を三冊出した後に失速して終了した。高村自身が連載をやめたがっていたとの噂があった。その後に雑誌に二度読みきり作品が掲載され、次回作を待ち望まれている間に行方知れずになったとか。
「地蔵のメッセンジャーをしながらハザマにいるよ」
高村が耳の脇を掻いた。それが困った時の仕草なのは知っていた。
「ハザマって何」
「夢とうつつのハザマだよ。地蔵の伝言は伝えたし、そろそろ行くか」
止める間もなく、高村は玄関へ向かった。
「どこに行くんだよ」
戻るか、じゃなく、行くか、と高村が発言したことに妙に不穏なものを感じてつい声が大きくなる。
「決めてない。指示があって、いろんなところに行くから」
「というか、現実に戻れよ! また漫画描いてくれよ、高村の漫画が読みたいんだよ」
「描くよ。今はネタを集めるためにハザマにいるだけ」
「本当にネタを集めてるだけなんだな?」
「本当だよ。そんじゃ、行くわ」
「戻れよ、ちゃんと! こっちの、夢じゃない現実の世界に!」
高村が片手を上げてバイバイのジェスチャーをすると、急に視界が暗くなり、猛烈な寒さを覚えて思わず両腕で自分の身体を抱いた。
「さむっ!」
玄関から流れてくる冷気でハッと我に返る。
オレは玄関前で棒立ちになっていた。高村の姿はなく、玄関の扉が開いた様子もない。
「あれ……?」
いつもの見慣れた部屋だ。時計が見える位置まで戻るとまだ昼で、三時にもなっていない。窓の向こうは久々に晴れていて明るい。
テーブルの上に見覚えのない桐の箱が置いてあった。
持ち上げると意外と軽い。
「夢……じゃない?」
箱の近くにオレが高村に出したココアを入れたカップがある。中身はもうないけど、底に薄くココアが残っている。
箱は高村が置いていったものだろうか。
開けてみる。中にはハート型に固めたかわいらしいチョコレートが入っていた。
「チョコレート……?」ふと、脳裏に首にレースつきのシュシュをつけたお地蔵さんの姿が浮かんだ。「もしかして、シュシュのお礼? あ、バレンタインデーか……」
ありがたく後でいただくことにして冷蔵庫に仕舞う。
テーブルへ戻る途中でスマートフォンが鳴り、棚の上に置いていたそれを手に取る。画面には覚えのない電話番号が表示されている。
「なんだろう」
出ると、見知らぬ若い女の声だ。
「……さんでしょうか」
電話の向こうの主はオレの名前を言った。
そういえば、今日はバレンタインデーだった。少しだけ胸が高鳴る。
「はいそうです」
「○○会社の△と申します。先日、面接で……」
「はい」
面接を受けた会社からの採用の連絡だった。
高村が言った通り、見知らぬ女からいい知らせがきた……。
バレンタインデーから数日たっても高村が現実にあらわれた気配はなく、今どこで何をしているのかはわからなかった。
また会えたら言いたいこと、聞きたいことが山ほどある。
パルムをもらったから、お返しにホワイトデーに手づくりのパンをつくろうと思う。そうしたら、また地蔵のメッセンジャーとして高村がやってくるかもしれない。
じきに訪れるホワイトデーに少しだけ期待した。
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