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〜綴〜
アンコールのMOONは印象的だった。
CDのおかげなのだと、実感する瞬間だったように思う。
家で聴き込んで来たファンが、手扇子をしながら、大合唱。
心拍が暴れて、涙腺が蛇口のようになるのを我慢した。
「今日はありがとうっ!まだツアー始まったばかりですっ!またどこかの街でお会いしましょうっ!ありがとうっ!」
ボウアンドスクレープは俺のお決まりの挨拶になっていた。ゴス色の強い舞台とエンターテイメント性の強い世界には良く似合う。
右手を胸元に、左手は広げて、くるくるっとおろす。
拍手と歓声の中、一番にステージを降りた。
息がまだ整わない中、リアラさん似の女性スタッフが口元で手を合わせながら、うっとり俺に近づいてくる。
「お疲れ様でしたぁ〜っ!すっごく良かったですっ!!」
「ありがとう」
「あのっ!打ち上げ会場!私も参加しますんでっ!」
「そ、そう、宜しく」
「はいっ!!じゃ、後でっ!」
去って行く彼女の明らかに好意的な言動に、小さく息を吐くと、後ろに重い気配を感じた。
「い、井波」
「目がハートだったな」
「え…ぁ…彼女、スタッフだから、頑張ってるだけだよ」
「…ふぅん…」
そんな素っ気ない会話をしていたら、ステージから降りたメンバー達がやりきったとばかりに楽屋になだれ込んでくる。
「つづちゃんっ!最高だったねっ!」
「つづっ!良かったぜ!」
凪野や鮫島さんがタオルで汗を拭いながらハイタッチしてくる。舟木は俺に水のペットボトルを手渡し、自分の持っていたペットボトルと合わせるようにゴンと音をたて乾杯してきた。
そのせいか井波との不穏な空気は薄れたように見えたけど…。
打ち上げ会場の居酒屋
サワキタさんが、わざわざ足を運んでくれ、乾杯の音頭をとってくれた。
あとはもういつも通りにグダグダにダラダラにボロボロになるまで呑むばかりだ。
「見てたよ〜、ラストは良かったね!MOONはもう立派な代表曲じゃないか?」
隣に来たサワキタさんがビールを注ぎながらご満悦に語る。
「えぇ、確かに最後はビックリしました。なんかプロっぽかったですよね。お客さんとの掛け合いなんか出来ちゃって」
アハハと笑っていると、隣に例の女性スタッフがやってくる。
グラスに入ったカクテルらしき物を両手で包み、俺のグラスにコツンと傾けて乾杯してきた。
ニコッと媚を売る微笑み。
リアラさんに似てはいるが、中身は断然こちらの方が粘着質と見えた。
「お疲れ様ですぅ…あの…私、凄いファンになっちゃいました!綴さんて、純粋に日本人なんですか?」
歌じゃねぇのかよ…が第一の感想。
「あっ!ステージ衣装のゴス感も堪んないし!でも、やっぱり、綴さんの顔面が素敵過ぎて〜!」
「…ありがとう」
衣装の感想でまた顔かよ…が第二の感想。
少し離れた席でバーボンを飲んでいる井波にチラッと視線を向けると、当たり前みたいに逸らされた。
俺は、はぁ…っと周りを気遣えないくらいのため息を吐いて、胸が痛むのを感じた。
井波が誤解してるのも嫌だし、井波が不快そうなのも嫌だ。
俺は席を立ち、井波に歩みよる。
井波はそれを察知して、席を立った。
「あっ!ちょっ!」
聞こえてるくせに井波はお手洗いがある方へ行ってしまった。
仕方なく元の場所に戻ると、サワキタさんがすっかり良い調子で酔っ払いながら言った。
「近くのホテルとってあるから。安いビジホだけどな。あのボロボロのバンで五人は寝れないだろ」
「ま、マジで?」
「ん?おう、まじだ。部屋は井波と如月、あと、三人で分けてとってあるから」
俺はサワキタさんの手を取り握った。
「ちょちょちょっ!そんな近づかれたら変な気が起きるわ!」
俺は訳の分からない事を言うサワキタさんを一回白い目で見つめてから、もう一度ギュッと彼の手を握り礼を言った。
後でゆっくり話そう。
井波と同室と分かったんだ。今、祝いの席で、何も追いかけまわす必要はないだろう。
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