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〜綴〜
井波は相当に鈍いのか、まさか男が男を本気でどうのこうのだなんて考えないのか、自分からディープキスなんてしておいて、あっけらかんとしたもんだった。
お互いバイトに明け暮れて、気づけば春はとっくに過ぎ去り、梅雨の終わりを迎えていた。
ミンミンと蝉が鳴いたり、かと思えば昼間からゴロゴロと雷鳴が轟いて白い稲光が空を走り、強い雨を降らせたりした。外では蛙が合唱している。
そんなある日、俺はまた事務所に呼ばれた。
事務員さんに声をかけたら、頬を赤らめながら「私じゃないの。社長が呼んでるわ」と奥の社長室を指差した。
俺は後ろで束ねた髪を掴んだ。
「髪…長いからかな」
独り言を呟き、社長室をノックした。
「どうぞ。」
「失礼します。」
中に入ると、作業着姿の社長が工場で作っているネジなんかを弄っていた。
「あぁ、如月くん、よく来た!」
「あ、はい…あの…」
「まぁまぁ、そうかしこまるな。」
近づいて来て、バンと肩を叩かれる。
「座って」
「は、はい」
髪切れって言われると思ってた俺は何となく憂鬱な顔でソファーに身体を預けた。
恰幅の良い社長は俺の向かいにドサッと身体を放るように投げた。
「はぁ〜、それにしても、如月くんは美男子だなぁ。女子社員がキャーキャー言うのが分かるよ。俺なんかから見ても綺麗だと思うね。」
「どうも…」
「ハハハッ!加えて無口なクールボーイか!」
大口を開けて笑う社長。本題をサッサと言ってくれないかと思いながら目を伏せた。
「いやいや、話が逸れたね、失礼。如月くん!急な話ではあるんだが、」
きたきたきたと俺は唇を軽く噛んだ。
「中途採用って形で、うちの社員にならないか?お父さんも亡くなって、大変だろう」
「へ」
「ハハハッ!へ?じゃないよ!社員だ。真面目に働いてくれてるし、バイトより金も福利厚生も良いんだぞ」
社長はニコニコ微笑みながら、組んだ手に顎を乗せた。
「どうだい?」
社員…俺の将来…ここで、見慣れた近所の人に混ざり、薄暗いレーンと…向き合い続けるのか?
俺は片方の口角がヒクッと吊り上がるのを抑え込みながら微笑んで見せた。
「ありがとうございます…ちょっと…考える時間を頂いても」
「あぁ、もちろんだ。若者は都会に出たがるしなぁ。まぁ、暫くすれば挫折して、こっちへ戻ってくるんだけどね。如月くんも考えてるのかな」
社長の言葉はあながち外れてはおらず、俺は苦笑いしか出来なかった。
同時に、上京は中止の方向に舵を取る脳内は、これ幸いと騒いでいた。
母さんを助けてあげられる。
やっぱり、俺はバンドを諦めないとならないようになっているんじゃないか…。
そう考えると、何だか全部が腑に落ちて、ガッカリする自分が居た。
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