0人が本棚に入れています
本棚に追加
お花見に雨が降っても
「予祝ってあるじゃない?」
「ヨ、シュク?…予習復習?」
「あらかじめ、祝うって書いて予祝」
「まず、あらかじめっていう字が出てこないんだけど…」
彼女さんの話には、時々知らない言葉が出てくるから、それに引っ張られてそれまで何を話していたか忘れがちになる。
そうそう。桜が咲いたらお花見に行こうって話をしてたな、今は。
彼女さんには、今でも何となく時期の区切りがあるらしい。3月と8月と12月の末。学生時代の新学期の切り替えが、身体にも記憶にも残っているんじゃないかなあと言っていた。
『桜が咲く時期にはまだ生きてるんじゃないかなあ』
とか、
『今年の夏は越えられる自信がない』
とか、
『年明けは迎えられると思う』
とか、僕にはぎょっとするようなセリフをいとも簡単に口にする。全くもって哀愁を漂わせることもなく。
「予祝のよは、予習のよで合ってるよ。祝はいわうっていう字」
ゆっくり言われて初めて、僕の頭にも形が浮かぶ。
「今、お花見の話してなかったっけ?」
「…そのつもりだけど」
冷たい目を一瞬こちらに向けてから、彼女さんは窓の外を見た。
僕の部屋で、休みの日によく見られる景色。どんよりとした灰色の雲と、どんどん濡れる窓ガラス。
「結果が喜ばしい状態になると信じて、先に祝っておくことを予祝って言うの。秋の豊作を信じて、満開の桜をたわわに実った稲に見立てて春のうちから宴会してお祝いするのが、お花見の由来」
「へえー。全然知らなかった」
「諸説あるけどね。だから」
窓から視線を戻して、彼女さんはドヤ顔で僕を見る。
「雨が降っても、部屋の中で春をお祝いすればいいかしらね。雨男さんと」
「あー。そういうこと」
僕は肩をすくめてから、彼女さんのマグカップにいつものりんごジュースを注いだ。もちろん自分の分も。
「え? なに?」
自分のカップを彼女さんの前に掲げて見せる。いぶかしがりながら、彼女さんも僕に倣う。
カチン、と、ワイングラスのようにはいかない低い音が短く鳴った。
珍しく不思議顔の彼女さんに、
「秋も元気な彼女さんを祝して」
と唱える。
驚いたこと1秒、すぐに笑ってくれる彼女さん。
豊作は大事。
でも僕にとって、それよりも大事なものがある。
最初のコメントを投稿しよう!