0人が本棚に入れています
本棚に追加
たまには抜け出して
昼休み。
だいたいの鍼灸院や整骨院は、休憩が長い。その分、うしろの営業時間を延ばせるから。
僕が働いている院もそのタイプで、昼の休憩が3時間半もある。まあ大半は仮眠していたり外食しに行ったりだけれど、場合によっては、予約ができなかった常連さんを診たり勉強会をしたりなんてこともある。もちろん技術の向上は大切だし、学びにはなる。
なる、けれど。
連日残業している身としては、休息したい日もある。
今日は、午前中に難しいお客さんが入った。ご新規さんで、鍼も初めて。痛いのは得意じゃないと言う。そういうお客さんは多いから慣れているけれど、そのお客さんはだいぶ身体が参っていて、打った1番細い鍼の刺激にも過剰反応が出てしまった。そのあと何とか持ち直して終わりはした。今日のところは。
次回から、どうしよう…。
院の中に居たら煮詰まりそうで、珍しく1人で外に食べには出てみたが。結局往きも帰りも、頭の中はそれに占められてしまう。
仕事の日だからか、空は真っ青な晴天。目を細めたくなるまぶしさなのに。
初めて会った日の彼女さんよりは、今日の人のほうがよほどマシだった。
それを考えれば、できないことないはず――と思い起こしたその拍子、今から渡ろうとした歩道橋の反対側の道に、思い出と同じ顔を見つけた。
マンガである、頭の上に『!!』と出たような勢いで、史上最高速度に歩道橋を駆け抜ける。日向ぼっこしていた鳩が、驚いてバタバタと飛び上がった。
僕が出す大きな足音に、道を開けて不審そうに振り返った彼女さんが目を丸くする。
「追い付けて良かった」
食後の身体には堪える全力疾走だったけれど、休みの日でもないのに、生の彼女さんに会えたことで報われる。
「お昼休み? 今日もお疲れ様」
彼女さんは笑った。だけど、いつもと何となく…違う。
こういう時、彼女さんはプロの心理カウンセラーだったから、すぐに理由を言い当てられてしまう。でも、僕には判らない。だから、尋ねる。
「今、ラーメン食べてきたトコなんだ。彼女さんは?」
「…天気良いから、散歩にね」
「でも、いつもより時間早くない? 紫外線弱まってから出掛けてるのに」
畳み掛けたら、また彼女さんが目を丸くした。
「…彼くん、聡くなったね」
「それ、褒めてるの?」
「褒めてるよ。…休憩、まだ大丈夫?」
「全然ヨユー」
「…もうすぐ終わりってことね」
通行人を気にして歩道橋の下に寄った彼女さんに付いて、僕も道の端に場所を移す。
彼女さんは溜め息をついて、肩をすくめながら笑った。
「この身体でさ、できる仕事なかなかなくて。求人見てへこんでたから気分転換」
「彼女さんのことだから、すぐに働かなきゃいけない経済状況でもないんでしょ?」
「収入はあるに越したことはないけどね。差し当たりのところはご明察」
「だったら、急がなくてもいいんじゃない? まだ身体も良くなってないんだし」
彼女さんの場合、時間をかければ良くなるレベルでもないのは、少し前まで担当していたから判っている。もちろん、本人だって理解しているはずだ。
そこのところを全部引っくるめたような視線を僕へ投げてから、彼女さんは自分の足元を見て小さくつぶやいた。
「働いてないと、自分の存在価値が判らないんだよね、私。だから、多分焦ってる。誰かに求められて、居ても良いよって言われる場所に通ってないと、気持ちが安定しないっていうか」
彼女さんがちゃんとこうやって話してくれるのは、驚くほど珍しい。僕のお客さんだった頃には、問診もあったしいろいろ聞いていたけれど。
それほど滅入っているってことなんだろうな。
「ごめんね、貴重なお昼休みの最後に面白くない話聞かせちゃって」
すぐに返答しなかった僕に、彼女さんがこちらに向き直って言葉を重ねる。僕は黙って首を振ってから、まっすぐに彼女さんを見た。
「久しぶりに弱い彼女さんを見せてくれて、僕はすっごく嬉しい」
彼女さんは、少し困った顔になる。
「お客さんだった頃にはそういう話もしてくれたけど、付き合って通院辞めてから、全然そういうの聞かなくなってたから。だから、嬉しい」
見ていられなくなったのか、彼女さんは視線を下げた。僕はそれを追いかけて屈む。
大事なところだから、ちゃんと伝えたい。
「あと、忘れてもらっちゃ困るんだけど。僕は、いつだって彼女さんを求めてるし、居ても良い場所提供してるよ? 断られた合い鍵、受け取ってくれたらいつでも渡すし」
「だからそれは、まだ早いから…っ」
「もちろん、」
彼女さんが言い終わらないうちに、僕は被せた。
「もちろん無理強いはしないよ。だけど、彼女さんの居場所は僕のそばって、ちゃんとあるから。それだけは忘れないで、絶対」
「…判った…」
消え入りそうな声だったけれど、了解が聞けたことに満足して、僕は職場のほうへ足を進めた。
「彼くん」
振り向けば、困ったような、泣き出しそうな、でもしっかりこっちを向いている顔があって。
「ありがとう。会えて、良かった」
「僕もだよ」
本当なら、もう一度戻って、周りを気にせず抱き締めたかった。でも時間がマズくて、『また連絡するね』と走り出してしまった。多分彼女さんも、それを勧める人だろう。
悩んでいた答えはまだ出ていないけれど。胸につかえていたものは、軽くなった。
たまには外に出て、陽を浴びよう。
一人で頭を抱えるよりも、きっと良いことがある。
最初のコメントを投稿しよう!