思い出の味

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思い出の味

彼くんの家に着いたと思ったら、職場で急に発熱してしまった彼くんの後輩から連絡が来て、急遽家主は出勤してしまった。 私も同時に帰ると申し出たけれど、『先輩と痛み分けで、午後の前半が終わったらすぐに帰ってくるから!』と、彼くんは鍵を掛けて走っていってしまった。 合い鍵を渡してくれると言われたこともあるし、信頼はされているんだろう。しかしながら、家主のいない他の人の家にひとり、という構図はなかなか落ち着かない。 あの激務のスケジュールの中、いつやっているんだろうというくらい、洗い物も洗濯もお掃除も、特に問題なさそうだ。 …なんて言いながら、家族でもない私が、本人のいない間にそんなことをするつもりは微塵もないんだけれど。 ……… 彼くんのいない彼くんの部屋は、何だかいつも以上に寒い気がする。 カレンダー的に春は近いけれど、この部屋に今、おひさまが不在だ。 荷物と一緒にまとめたマフラーを引っ張り出そうとした拍子、出掛けに買い込んだ、明日からの食材と思わず手にしてしまった安売りの品を目にして、記憶の中で何かが小さな音を立てた。 「ただいま! ごめんね、長い時間1人にして!」 電話が来て、なんならメッセージも来て。帰ってくる時間は判っているのに、彼くんは物凄い勢いで走り込んできて、その勢いのまま平謝りした。 「大袈裟。子供じゃないんだから、1人でいられるよ」 「でも、本来なら…」 「何にせよ、お帰り。休日出勤お疲れ様」 まだモゴモゴ言っている彼くんを黙らせて、私はIHヒーターのスイッチを入れた。 「何か、作ってる?」 「ん。彼くんの思い出?」 「え?」 熱を入れている間に、彼くんにうがい手洗いを促して、最後に味を整える。 戻ってきた彼くんを席に着かせて、怪訝顔の前で小さな土鍋の蓋を開けた。 「あ! 味噌煮込みうどん!」 「味付けは市販品メインだから、彼くんの思い出の味ではないんだけど」 「僕が食べていいの?」 「もちろん。というか、食材は彼くん家のです。勝手に使わせてもらって、ごめんね」 「そこは気を遣わないで良いから、謝らないでよ。めっちゃ嬉しいし」 部屋中に響くいただきます! と、食べ進める彼くんの表情に、失敗はなかったようだとホッと胸を撫でおろす。 「…彼くんが出掛けてから、この部屋凄く冷えて感じてさ。その時に、今日の安売りで味噌煮込みうどんの素買ったの思い出して」 目だけこちらを向く彼くんが、言葉の先を待っている。 「『寒くなると、実家では良く食べてた』って彼くんが言ってたなーって言うのも一緒に出てきて、作ってみちゃった。そういう気分じゃないかも、とかも思ったんだけど…」 「仕事から帰ってきて、作ってくれたご飯があったら何だってご馳走ですから」 彼くんが、芯のある声で私の逆接を断つ。 「自分のために作ってくれたなら、それだけでサイコー。僕の話を覚えてくれてて、それを思い出して作ってくれたなんて、有頂天になりますから!」 そう言う彼くんの顔は、おうどんのせいか、照れているのか判らないけれど、少し赤くなっている。 「それなら、良かった」 私の顔も、少し熱い。 「今度思い出の味、一緒に食べに行きます?」 「…そうだね」 会話の流れでうなずいてしまったけれど、その意味を悟ってハッとした時には一足遅く。 「…絶対ですよ?」 にやりと笑った彼くんの顔が、赤いままで輝いていた。
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