僕の誕生日

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 雪が積もった夜は静かで明るくて、降っても積もることの少ないこの辺りでは思い出さないだろうと思っていたあのときを思い出す。  僕はまだ多分一桁を脱するかどうかくらいの年齢であの部屋が世界の全てで、そしてもうすぐきっと死んでしまうのだと思っていた。僕の母親だったあの人が僕の前で笑う姿は空元気だったし、僕の父親だったあの人はいつも難しい顔をしていた。  あの部屋は病室で、僕は記憶の限りずっとその部屋で暮らしていた。僕にとってはそれが当たり前だったから特に娯楽が欲しいなどと思うこともなく、来る人と話すことを楽しみにしていた。僕はその部屋で寝て起きて食べて勉強して、そのくらいのことを繰り返していた。医者は毎日、看護師は一時間に一回くらい、母親は数日に一回で父親は一か月に二回くらい来ていたと思う。勉強は本を読んだり何かを書いたりといったもので看護師が教えてくれることもあった。いや、僕は看護師から勉強を教えてもらったと認識しているけれどもしかしたらその一部は先生だったのかもしれない。別にあの部屋に来る人はいちいち自己紹介することなんてないから僕の認識が間違ってる可能性だってある。  僕は僕の年齢を知らない。一応今は二十五歳ということになっているけれど、あの部屋にいたときは自分の年齢を知らなかったし誕生日を祝ったこともない。今の年齢だってそのくらいだろうと思われたからつけられたものだ。誕生日はあの日、あの部屋から初めて出た日。  あの日は雪が降っていた。普段は大概カーテンがかかっていた窓もあの日はなぜかカーテンがあいていて、少し寒く感じた。僕は母親と少し喋って、それでいつもより強くもう死んでしまうのだと思った。どうしてそう思ったのかはもう思い出せないけれど、きっといつもより母親が無理をしているように見えたのだろう。  夜には雪が止んで、どうしてだか外を見たくなった。雪をもっと見たかったのかもしれない。だってカーテンのしまっていない窓なんてなかなか見ないし、その窓から雪を見るのなんて初めてだったから。知識として天気のことや気温のことは知っているけれど、あの部屋が世界の全てだった僕には本物の雪は初めてだったから。  雪はしっかり積もっていて、見える範囲の地面は一面真っ白だった。それでもしかして、あそこに行けば僕は死ぬのかもしれない、僕の天国はあそこなのかもしれないと思ってしまった。地面の雪までの距離はよくわからなかったけれど、行けると思った。僕は窓をあけて、飛び降りた。部屋は二階にあったようで、雪のおかげもあり怪我は一つもなかった。けれどそのときの僕は部屋の中で過ごすような恰好をしていたから急激に冷えていった。僕は部屋の方を見たけれど、もちろん戻る手段なんてなかった。それで、どうしてだか雪の方に踏み出した。もしかしたら死にかけの猫が消えるようなものだったのかもしれない。僕は母親にこんなところで死ぬ僕を見せたくないとでも言うように建物から離れていった。雪が積もった夜というものは静かで明るくて、僕はここに一人なのだと強く思った。  どれくらいの距離を歩いたのか、どんな道順で歩いたのかは全く覚えていない。気づいたら僕は保護されていた。親切な人が雪の中で倒れている僕を連れて帰って温めてくれたらしい。その後僕はその人が呼んだ警察の人にどこから来たのかとかどうしてそんな格好でとか聞かれた。僕は病院にいて初めて外へ出たのだと説明したけれど、そのあたりに病院はないということで全員が首をひねった。どういう建物かという説明をしようとしたけれど、僕が知っているのはあの部屋だけで飛び降りた後に見上げたのはあの部屋のあたりだけで建物の全体像などはまるで知らなかったから何も説明ができなかった。そして僕はそのとき気付いたのだけれど、名前で呼ばれたことがなかった。あの部屋に来た人はみんな僕を君とかお前とかでしか呼ばなかった、名前を呼ぶことはなかった。  結局話せたことは少なく、その少ない中に病人かもしれないということがあったので、僕はそこから離れた都会の大きな病院に入院して検査された。けれど僕の中に重い病気は一つも見つからず、冷えたことによるしもやけと風邪気味くらいしかなかった。  そうしていろんな人が出した結論は、金持ちの個人などが僕を使って何らかの実験を行っていたのではないかというものだった。僕が医者や看護師や父親や母親だと思っていた人たちもそのようにふるまっていただけでそうではないのかもしれないと。別にそれらの全ては推測だから僕は信じないという選択もとれたけれど、その推測を拒否する理由は僕にはなかったのでそういうことにしている。  そうして僕は名前も年齢も家族もなく、急激に広くなった世界に一人放り出された。幸いそれ以降の僕の周りの人たちはみんなやさしくて、そうして十五年ほど生きてきた。僕が暮らしていたあの部屋が何なのかは今もわからないし警察でも見つけられていないみたいだけれど、遠くに引っ越してしまった僕にはもう関係ないし思い出すこともほとんどない。ただ今日みたいな雪の積もった夜にはあの静かで明るい僕だけの時間を思い出す。
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