1人が本棚に入れています
本棚に追加
コツコツとヒールを鳴らして凛花は25階のオフィスを出る。今日は期日間近に迫った案件の変更をして欲しいと相手方に要望され、なんとか間に合うようにオフィスのあちこちに出向き頭を下げて奔走した。そのせいで本来予定していた仕事は終わらないしお昼ご飯も食べていない。なのにもう時刻は夕飯時をとうに超えている。
「しかもこの天気だもんねぇ」
凛花は手元のスマートフォンを見つめながら思わず深くため息をついた。
東京23区積雪 交通機関に乱れ
いくつものニュースアプリでトップに躍る見出しはバスで職場にかよう凛花にとってかなり憂鬱だ。現に今職場のある25階から1階に降り一面のガラス張りから外を見渡せばいつものバス停近くには長蛇の列、通り過ぎるタクシーは全て満車だ。
「これは歩くしかないか」
凛花の家は職場からギリギリ歩いて着くことの出来る距離にある。どうしようもないので覚悟を決め、自動ドアの向こうの外界に出る。冷たい風が凛花の肌色のストッキングを刺し、思わずひっと小さく声を上げてしまった。
もうすっかり夜の色をした空を見上げると今にも消えそうな雪がまばらに落ちてくる。凛花が生まれ育った地域は、絶対に消えてなんかやらないぞとでも言ってそうな大きく逞しい雪が降っていたので、正直これぐらい大したことないはずなのだが、大人になった今、働いた後で誰もいない家に帰るとなると話は違う。
あの頃は雪は凛花たちの友達だった。光莉や玲美やその他のたくさんの友達とおんなじように友達だった。賑やかでカラフルで終わらない毎日に欠かせない愉快な仲間だった。
でも大人になって変わってしまった。
かつて友達だった雪は一人で誰もいない自宅へ帰るという現実をより一層寂しいと自覚させる敵になってしまった。もうかつてのように「雪が降る」と聞いても懐かしい友に久しぶりに会えるような胸の高まりは無くなってしまった。
きっとそれが大人になったということなんだろう。そう凛花は就職で上京してからの八年間で納得した。だけどこんな寒い雪の降る夜に一人で帰る時は、そんな納得をつい寂しいと思ってしまう。
「冷えるなぁ」
手慰みに傘から出した手のひらにたった一粒雪がのる。
かなり冷えきっているはずの凛花の手の温度でもあっという間に水滴に変わってしまった。こんな寂しい夜はさっさと帰って暖かい布団に潜って寝るに限る、そう決意して歩みを早める。
律動的な足音を響かせ帰路を急いでいたその時、凛花の歩く歩道のすぐ隣をタクシーがかなりのスピードで通り過ぎて行った。スピード出しすぎじゃない?そう思う間もなく雪が溶けたせいで溜まっていた水溜まりがタクシーに弾かれ凛花の脚に勢いよくかかった。
「もうっなに!」
近くに歩行者が居ないのをいいことに思わず悪態をついてしまう。凛花は今日ストッキングを履いているのでこのまま放置して歩き続けるには無理がある。たぶんここ最近で最強だと思われる今日の冷気に晒されて、家に着く頃にはアイスみたいな脚が完成されることになるだろう。どこかでせめてかかった水だけでも拭えないか。凛花はカバンからハンカチを出して周りを見渡した。見渡しながらふと泣き出しそうな自分に気づく。
いやいや、社会人何年目だよわたし。
もう泣くとかそういう時期じゃないだろ。
そう内心自分で自分に突っ込んでも誤魔化せない程に心が不安定だった。頭を下げ続け、時に嫌な顔をされながら、なんとか取引先のスケジュール変更を成立させた昼間からの蓄積が限界を迎えていた。負の感情を溜めているバケツがすれすれまで満たされていて、もうあとちょっと、何かをしたら溢れ出してしまいそうだった。
そんな瞬間、見渡していた凛花の目にひとつの公園が飛び込んできた。
「こんな公園あったっけ」
バスに乗っていた時には気づかなかった。凛花はそろりそろりと公園の入口へ進む。ベンチが一個でもあってくれればゆっくりと座って水を拭える。
入口に立ってみるとなんの変哲もない錆びた公園だった。狭い敷地にブランコがひとつと、ベンチが並ぶように二つ、そして真ん中に桜の木が1本。
あれ、なんだこれ
公園の真ん中に真っ直ぐに立つ一本の桜の木に凛花は激しく動揺した。思わずわずかに後ずさってしまう。なぜかこの光景をすごく見たことがある気がする。この公園は初めてのはずなのに、なぜこんなにも私はこの桜の木に心揺さぶられているのだろう。
恐る恐る桜の木の下へ進んだ。
四方に伸びた黒い枝に雪が薄く積もっている。至って普通の桜の木だ。凛花はそっと幹に触れた。すこしひんやりとしている。その冷たさを認めた瞬間、凛花の頭で一瞬にして過去の記憶が大量に流れ出した。あれはきっと小学生の頃だった。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
誰もいない雪だけが広がる丘に響く幼い凛花の息。
1周、2周、3周
桜の木の下を凛花はゆっくりと回っている。
「雪の降る日に桜の木の周りを3回回って、最後に木に口付けをすると雪の神様がなんでも願いを1つ叶えてくれる」
クラスの誰かが得意気に言っていた伝説。
回り終わった凛花はまだ自分よりも遥かに高い桜の木を見上げた。幼い凛花の顔に雪がかかる。
「雪が凛花だけのものになりますように」
昔の願い事を思い出して声を出して笑った。
あの頃のわたしは本当に雪が好きだったのだ。白く輝いてとんでもなく美しいのに、いつか必ず消えてしまう。それが心底もったいなくて、誰にも触れさせず自分だけのものにしたいと思った。
目の前に立っている桜の木を改めて見る。
叶うはずのない願いだったけど、なんとなく桜の木はずっとあの日の凛花の願いを運んで来てくれたのだろうと思えた。
「雪の神様、ありがとう」
そっと桜の木を撫でてお礼を伝える。
きっとあの冬、雪の神様の伝説を信じて祈ったのは凛花だけじゃない。きっと雪の神様は祈りを込めて口付けた全員の願いを今もひとつ残らず忘れずにいてくれている気がした。
途方もない幼い頃の夢に触れたせいか、いつの間にか溢れそうな負の感情のバケツは空っぽになっていた。
いつかきっと雪を自分だけのものにできてしまうような大人になってやろう。
清々しく笑う凛花を褒めるように雪がいくつも降り注いでいた。
最初のコメントを投稿しよう!