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本編 「これまで」
彼との出会いは、この大学に入学して二日目のこと。
あの日は、晴れていた。
爽やかな青空。抜ける風。黄色い期待と、ささやかな不安の入り混じった空気を、僕も、僕以外の新入生達も、自らの周囲へと発しながら、大学への通学路を歩く。
もう本当に、うんざりするくらい花粉が飛んでいて、僕は花粉症なので、何度もくしゃみをした。この感知機能は不要だな、オフにしたいな、と心底思う。
正門から大学の敷地内に入り、建物までの道に沿って、寄り集まって来る学生達の群れ、その流れに例外なく集約される。
その流れの中に、ひときわ目立つ人がいた。
それが彼だった。
はじめは、女の人かと思った。
真っ白の長袖のシャツに、黒のスキニーパンツ。鞄は持っていなくて手ぶらだった。足下はスニーカで足取りが軽い。身体の線が細くて、足も細くて、あのまま空まで歩いていけるのではないか、と想像したのを覚えている。
目が大きくて、鼻筋が通っていて、つまり、整った顔だった。
露出している部分の肌は真っ白で、不健康を通り越して透明だと錯覚させる。
でも、何より周囲の視線を集めていたパーツは、彼の髪だったろう。
見事な金色の、腰まで届く綺麗な長い髪。
綺麗だった。
本当に綺麗で。
もう本当に綺麗で。
陽の光を反射して輝いていた。
光は弾くけれど、空気は絡み取ろうとしているかのような、そんな複雑な軌道をみせたかと思うと、驚くほど素直に解けて、自重で下方へとくだる。毛先だけがもう一度跳ねて、その繰り返し。
美しい、と感じた。
綺麗だ、と評価して。
溜息が漏れた。
髪だけでなく。
彼の顔だけでもなく。
彼が、あの髪を靡かせて歩いていることが。
その完成度が、美しい、と感じさせるのだ。
同時に、言語化することが困難だと思った。
この感情を、この感覚を、言葉という曖昧な記号に押し込めて、自分以外の誰かに説明するのはとても難しい。
実際に彼を目にしなければ。
彼を前にして息を止めてみなければ。
この瞬間の彼を見てもらわなければ。
絶対に伝わらない、そう断言できる。
どうして、こんなことを考えているのだろう。
どうして僕は、彼に目を奪われているのだろう。
目立つから、ではある。それはそうだ。僕以外の者も注目している。男女を問わず、近くを歩く者は例外なく、遠目からスマートフォンを構えて無礼にも撮影している者もいる。それくらいには、彼の存在は目を引く。
ただ。
ただ?
それだけの理由だろうか。
それだけが理由だろうか?
まさか。
もしかして。
僕は、言い訳をしている?
一体、何に対して?
一体、誰に対して?
何故、そんな真似をする?
そんな必要があるのか?
不思議だった。
疑問だった。
そう。
これが、僕が彼を目にした最初。
衝撃と、魅了と、疑問と、自問。
複雑な感情を想起させる、類稀なる美麗な時間だった。
しかるに、僕と彼との出会い、という表現は、厳密には誤りで、僕が彼を一方的に見つけ、意識するようになった、そのきっかけ、という表現が正確であり、また適切である。
誰に対して申し開きをするわけでなく、誰に対して言い訳をする必要もないけれど。
彼という存在を認知し、どうにも放っておけなくなった、その始まりであった。
彼の存在を知ってからの僕は、大学構内にいる時、彼を探して視線を動かす、という習慣を帯びた。
こういった習慣というか、癖というのか、そういうものが、これまでの自分の人生の中には不在であったため、僕自身、今の状態が正常なのか、心ここに在らず、といった精神の浮遊に近しいものなのか、認識として曖昧だった。
寝起きには必ずブラックコーヒーが必要だとか、小説でも教科書でも新聞でも何でもいいから活字を読んでいたい、何かしらのインプット作業をしていないと頭が落ち着かない、などの特徴を僕は有している。しかし、これらは自己分析を終えた、認知済みのルーティンであり、日常生活における必要項目、僕という人間が前向きに生きていくための儀式である。
そういった様式とは一線を画す、本来であれば無用なはずの行為。それを一も二もなく始めた自分自身に、僕は驚いていたのである。
例えば彼を見つけたとして、だけど、どうしようというつもりもなくて、話しかけてみようという前のめりな意思に支配されているわけでもなくて、ただ、ひと目見ることができたらいいな、という、大人しくて、後ろ向きで、一つ間違えるとストーカのような、そんな気持ちで日々を送っていた。
一言にまとめるなら、妙だ。
微妙に、絶妙に、自分が浮いている。浮足立っている。
何をそんなにそわそわしているのかと何度も自問した。
そのたびに、僕自身は、よく分からない回答を繰り返すのである。
深い意味はないけれど。
深刻でもないけれど。
ただ、もう一度。
できれば、もう一度。
彼をひと目見たい、と。
そう繰り返すのである。
そんな僕の大学生活に劇的な変化が訪れたのは、入学から数えて、ひと月ほどが経過した頃だった。
その日、僕は大学の学食で遅い昼食を取っていた。
プラスチックのスプーンでカレーライスを食べながら、片手で工学関係の専門書を開き、ベルチェ効果とその基本動作の項目を読んでいた時である。
僕と同じテーブルの、僕の目の前の席に、誰かが座った。
他にも場所は空いているのに、どうしてそこに座ったのだろうと。
僕は本から視線を上げて。
息が止まるほどに驚いた。
彼が、僕の前の前にいた。
彼は、最初にその姿を目にした時とまったく同じだった。
服装も、真っ白な肌も、整った顔も、長くて、軽そうで、桁外れに美しい、あの金髪も。
「こんにちは」
彼は笑顔で挨拶をした。
僕はあまりのことに、咄嗟に言葉が出てこなくて、小さく会釈を返すのがやっとだった。
「食事中に、ごめんね。ここ、相席してもいいかな?」
「……うん、いいけど」
どうにか声を絞り出して、僕は彼と会話をした。
初めて言葉を交わしたのは、この時だ。
想像していたよりも、彼の声は高かった。
女の人と同じくらい高い声で、それでいて、芯が安定しているというか、独特の響きがある、不思議な発声だった。
胸が高鳴った。
僕は完全に冷静さを失っていたし、落ち着きなんて吹き飛んでしまって、現状を把握することすら困難だった。
彼が、あの彼が、こんなにも間近に居る。
僕の目の前の席に座っていて、つい今しがた、言葉を交わしたのだ。
挨拶をして、そこに居てもいいかと聞かれた。
どうして、僕の近くに座ったのだろう? これが最大の謎だった。他に席はいくらでも空いていたし、彼と話をしてみたい者は僕以外にも多いだろう。現に、前方斜め奥の女子グループの子達が三人、こちらを向いて話をしているのが見える。二名は口元に手を当てたりしながらで、もう一名はスマートフォンをこちらに向けて構えたりしながら会話している。
視線を真正面の彼へと戻す。
彼は、僕を見ていた。
僕と目が合うと、静かに、ゆっくりと微笑んだ。
その表情の変化が、またとてつもなく美しくて。
湾曲する口角、長い睫毛と、どうしてだか水気を感じさせる目元。
僕とは、他の人とも、鮮度が違う。そんな意味不明な感想を抱いた。それほどの迫力と破壊力が、ほんの数十センチの距離にあるのだ。平常の生理機能など、途端に不全に陥っても仕方がない。
「カレー食べないの?」
彼が僕に聞いた。
聞かれてようやく、僕は自分が食事中であったことを思い出した。
ああ、とか、うん、とか、短い返事をしてから、僕はスプーンを動かす作業を再開する。味なんて全然分からない。むしろ、どうして彼の前で、こんな恥ずかしい動作を重ねているのだろう、と首を傾げたくなった。
「カレーが好きなの?」
彼がまた聞いた。
「好みでいえば、普通かな。学食のメニューで一番安いから、これにしたんだ」
「なるほどね。そっか、うん、カレーライスが一番安いもんね」
彼は笑いながら、僕の拙い説明に言葉を返してくれる。
「大学には、もう慣れた?」さらに彼が聞く。
「慣れた、の定義によるかな。授業についてなら理解できてるし、大学内の建物の把握なら、まだ不完全。よく使う講義室の場所は覚えたけど、PCルームや准教授達の個室とか、院生室とかは、どこにあるのか探しながら移動するようになる。高校の校舎とは規模が違うし、尋ねる要件が突発的かつ限定的だったりするから」
「君って、意外と理屈っぽいんだね」
彼は口角を上げながら言った。
「理系だからね。こんなものだよ」
「そっか、そんなものか」
僕達は小さく笑い合った。
彼の前で初めて、僕は自然に笑うことができた。
この進展を逃す手はない、と考える。
「よかったら、名前教えてくれない?」僕は聞いた。
「菖蒲雪花(あやめ ゆか)」
彼はさらりと答えてくれた。
「女の子みたいな名前だね」
「よく言われる。君は?」
「橙片甘成(ひがた あまなり)」僕は答える。
「珍しい苗字だね」
「よく言われる」
「今更だけど、いきなり話しかけちゃって、ごめんね。逃げられなくて良かった」
彼はテーブルに頬杖をつきながら言った。
「逃げたりはしないけど、うん、驚きはしたよ。だって、名前だって今聞いたような間柄だからね」
「確かに、そうだ」彼は笑う。
「それで、どうして僕と話してくれてるの? 僕達、初対面だよね?」
「そうだね。初対面」
彼は頷きながら、しかし、その視線は僕の荷物の方へと逸れていく。
「ねえ、今、筆記用具と、真っ白い紙、持ってる?」
唐突に彼が聞いた。
「えっ? ああ、うん、あるよ。ルーズリーフ? それともノートの方がいい?」
質問の意図がよく分からなかったし、こちらの質問が宙ぶらりんのままだったけれど、僕は反射的に応えつつ、プラスチックのファイルケースからボールペンとシャーペン、ノートとルーズリーフを取り出す。
「あ、じゃあ、ボールペンを貸してもらってもいいかな? あと、ルーズリーフを一枚貰えたら嬉しい」
彼は申し訳なさそうな表情で、僕の手からペンと紙を受け取った。
ああ、そんな表情もするんだ、と。
新鮮な感想を抱いて。
彼の表情の変化に見惚れて。
遅れて、体温を感じ取った。
彼と、僕の指先が、少し触れたのだ。
胸が鳴った。
少し痛いくらいに。
息が苦しくなってしまう。
どうして鳴ったのかは不明で。
でも、決して嫌ではなかった。
どうしよう、という言葉が頭の中をよぎっただけ。
真っ白で綺麗な細い指。
完璧な形の光沢のある爪。
ペンを持ち、滑らかに形状を変える彼の右手。
その様子から、キーボードやギターの弦などに触れている構図が映えるだろう、と想像した。
彼の指が、ほんの少し触れた。
それだけの事実を、まだ回顧している自分。
些末なことだ。分かっている。
それなのに何故こんなにも揺さぶられる?
それが疑問。
それだけが不定。
それ故に追求したい。
「何に使うの?」
動揺を隠すように、僕は彼に問う。
手紙をね、書きたくなったんだ、と彼は答え、すぐにペンを走らせ始めた。
迷うことなく、悩む様子もなく、既に文言が決まっているかのように、スムーズに。
何がなにやら分からないまま、とりあえず覗き見るのも失礼かと考え、僕は食事を再開する。
彼は、どうして僕の前の席に座ったのだろう?
聞きそびれたというか、機を逸した質問を疑問へと再変換して、再び考える。
僕に話しかけてきた理由、これまで面識もなく、言葉を交わしたことすらなかった。僕は大学に入って初めて彼を知ったし、彼だって同じはず。
となれば、初めましてから、いきなり、このようなやり取りまで飛躍すること自体レアケースであるといえるし、それが成立しているこの状況は、やはり珍妙だと評価できる。奇跡的とすらいえる。予想するに、彼並みの魅力を発する者以外では困難だろう。常人がこのような真似をすれば、不審者扱いは避けられない。破格もしくは規格外でなければ、人が人を相手にする以上、警戒心が先行するものである。
おまけに、である。
またどうして、手紙を書き始めたのか、という謎。
今時、手紙など書く必要があるのか、という疑問。これも真っ当な問いである。
連絡を取る方法なんていくらでもある。それなのに手紙を選択した理由は何か?
そういえば、彼は今日も手ぶらだ。見たところ、鞄も、筆記用具も、教科書も、何も持っていない。割り当てられた自分のロッカーなりに置いてきたのだろうか。それにしたって、もしそうならば、必要なペンと紙は持参して、僕との相席に臨めばいい。もしかしたら、本当に軽装なのかもしれない。あまり真面目に授業を受けていない、という可能性である。単位は大丈夫なのだろうか。まさか、既に単位を取り終えて毎日に余裕のある四年生なのだろうか? それにしては顔には幼さが残っている。僕と同じくらいの年齢に映る。であるならば、やはり不真面目なだけか。もしくは、自由であるのだろう。
疑問は次々に浮かぶ。全く尽きることがない。
映る状況は、まさに不可思議で。
彼の取る行動その全てが謎めいていて。
だからこそ、目を離せない自分がいた。
徐々に自覚する。
理解が及んでいく。
彼と、僕の関係性。
彼の不合理さ。
彼の非論理性。
その可笑しさと愉快さ。
自分にとって彼が、どういう存在になりつつあるのかを。
好感だけがあって。
不快感はなかった。
考えてしまうこと、考えなければならないことは増えるだろう。
まだ少し緊張もしている。見ず知らずの他人ではなくなったけど、仲良しと呼べるほど打ち解けてもいない。
例えるなら、そう。
初めてのデートみたいな、そんな感覚。
気持ち悪いかな。こんなふうに発想すること自体が可笑しいのかな。
だけど、言い訳をしなくちゃいけない誰かなんて、僕や彼の周りにはいない。
仲介人は不在。だから、ご機嫌を伺ったり、倫理観だとか、常識だとか、そんなものを意識したり、囚われたりなんてしなくていいはずだ。
いや、待った。
それ以前の箇所に語弊を見つけた。
僕は、これまでの人生において、誰かと交際したことがない。
なので、感覚的に、この状況がデートのようだ、と表現するのは誤りである。
スプーンを持ったまま、ふき出しそうになる。
まったく、僕は何を考えているのだろう?
逸れて、逸れて、戸惑う思考。惑う思考。
混乱しているのを自覚できて、それなのに困ってはいない。
あぁ、可笑しいばかり。
嗚呼、感情がでたらめ。
何故、考えているのだろう?
明確な答えが必要だろうか?
こうして彼と話ができて、彼の手に触れることができた。
彼と向かい合って座っていて、彼と同じ空間にいる。
それだけで充分ではないか。
このような接点を、心の中では望んでいたではないか。
こんな始まりを、幾度も空想していたではないか。
求め、与えられた。単にそれが急過ぎただけ。
そうか。
叶ったんだ。
ようやく理解した。
ようやく理解できた。
理解できて良かった。
停止していたのだな、と解して。
停滞していた精神が現在に追いつこうと。
猛烈に追い上げてくるのを感じた。
僕が食事を終えるのと同時に、彼も手紙を書き終えた。
ありがとう、という言葉と共に、彼はペンを僕に手渡す。
「その手紙さ、誰に出すの?」
僕は思い切って踏み込んだ質問をしてみた。
「これはね……」
言いながら、彼は柔らかく微笑んだ後、僕の手を取って、その手紙を乗せた。
彼の意図がよく分からないまま、手に乗せられた手紙を掴む。
「暇な時でいいから、読んでみて欲しい。感想は、次に会えた時にでも聞かせて」
彼はそう言うと、席から立ち上がり、ゆったりとした足取りで学食を出て行ってしまった。
僕は、あっけにとられて、すぐには動けなかった。
そして、ふき出してしまった。
何なんだ、まったく、本当に。
僕と彼は、互いに顔を付き合わせていたのに。
すぐ目の前にいて、言葉を交わしていたのに。
このデジタル全盛期に、わざわざ手書きで文字を書いて。
直接、手渡したのだ。
彼の行動も、彼の考えも、言われるがまま、それに沿っていた自分自身も、何もかもが可笑しくて。
こんなの、笑うしかない。
判ったのは彼の名前だけ。
菖蒲雪花。
初めて知った名前。
ようやく知れた名前。
尊ばれる、彼の名前。
どうやって呼ぼう。
苗字を呼び捨てで良いだろうか? 君を付けた方が良いだろうか?
堅苦しいと嫌がられるだろうか? とにかく、彼が嫌がらない呼び方が僕としても好ましい。
次に会えた時のことを考えつつ、僕はファイルの中へ、彼から貰った手紙を大切に仕舞った。
今日の授業を全て終えて、自室へと帰り、一息ついて、それから読もう、と決めた。
目を通すのは、ゆったりとした、落ち着いた気持ちになってからにしたい。
今はまだ、とにかく大袈裟に、舞い上がってしまっているから。
期待の手紙を読み、内容の解釈に時間をかけて、感想をまとめ、感情をまとめ、言葉として整理して、彼への返事を用意した僕は、なかなかどうして、大学内で彼を見つけることができないでいた。
翌日から翌日も、その次の日も、休日を挟んでも変わらずで、見つけられずで、会えず仕舞い。思い返してみると、大学構内で一瞬、彼を見かけることはあった。正門を出入りしているところや、学食でコーヒーを飲んでいる姿も見た。中庭のベンチに座っていることもあった。それなのに、授業の教室にはいない。そのせいで、いざ会って声をかけようとしてみたら、当の本人が捕まらないのである。
どの講義にも出席している様子がない。僕と同じ一年生なら必修科目があるので、どこかしらのタイミングで同じ講義室にいるという状況が発生するはずなのに、それがない。一度もない。これは実におかしなことだった。必修を落とせば当然、必要単位が足りず留年となる。高校の頃程融通は利かないし、大学側も容赦なく学生を落す。大学生は社会人へと近づいた立場なのだから至極必然の変化である。そう、だからこそ、一年目からあまりに油断した真似をしていては、一体何のために大学へ入ったのか分からなくなる、ということ。
だけど、たとえば彼なりの事情というものがあるのかもしれない。そうした不透明の部分が存在する以上、なんとも言えない。もしそうであるのなら、僕が口を出すことではない。勝手に心配しているだけだ。それに留めておくのが最も安静であり、波風が立たない。一般常識的にもそうだし、僕自身のポリシーとしても同様である。
僕は彼のことを知りたいという欲求を抱えているけれど、彼の行動や生活態度をたしなめたいわけではない。くだらない正義感なんて引き合いに出すつもりもない。もっと単純に、もっと純粋に、彼に会いたい、顔が見たい、言葉を交わしたい、それだけの感情に起因する行動理念だ。
ようやく彼と再会できたのは、学食での奇妙なやり取りから数えて、一週間以上あとのことだった。
僕は講義を聞き終えたばかりで、取っている次の授業のため、別の教室へと大学構内を移動しているところだった。
移動効率を考慮して、コンクリート造の建物を出て緑の芝生が一面を飾る中庭を横切ろうとした。そこで、中庭に設置されたベンチに彼が座っているのを見つけたのだ。
あっ、と思わず声を上げてから、僕は駆け寄り、彼に声をかけた。
彼は読んでいた本から顔を上げて、こちらを見た。
僕を認識した瞬間、微笑んでくれた彼の表情、その顔を見て。
僕はまた、自分の胸が鳴ったのを自覚。
重症だな、と内心、自分に呆れた。
「おはよう。今から授業?」
「おはよう。うん、今から授業。だけど、それよりも伝えたいことがあってさ」
答えながら僕は、プラスチックケースから手紙を取り出して、自分の胸の前に掲げてみせた。
「読んだよ、ちゃんと」
「読んでくれたんだ。ありがとう、嬉しいな」
彼は微笑む。
これまでと違い、少しだけ恥ずかしそうな、ちょっと遠慮気味な、珍しい表情の変化を覗かせて。
「それで、伝えたいことって?」
彼の問いに。
僕は、静かに深呼吸をして。
腹を括った。
覚悟の再確認。
心理の再確認。
全ての僕が同意した。
口を開き、告げる。
「僕は、君が好きだ」
彼の目を見て。
二本の足でしっかりと立って。
木製のベンチに座り映える彼へと。
性急な恋を見据えたまま。
言葉にして伝えた。
真っ直ぐに、偽ることなく、手渡した。
最上級の緊張を伴いながら、それでも言いたかったから。
隠せなくなるくらい肥大化してしまう前に、そうなってしまうまでに。
手遅れから後悔してしまうような、そんな不都合な未来が訪れる前に。
僕以外の誰かが、彼を連れ去ってしまう前に。
起こって欲しくない未来を予測できるからこそ。
僕は少し無謀にも、彼へ告白をした。
大衆の言う想いとは、少し異なるかもしれない。
それでも、それでも、と自分を急き立て、理屈を重ねて。
彼なら理解してくれるはずと期待を抱き、己の情に人格を委ねた。
彼は、僕を見つめている。
僕も、目を逸らさなかった。
逃げ出すつもりはなかった。
手ぬるく甘い覚悟で、ここにいるわけではない。
決して思いつきで口にしたわけではない。
唐突に、彼はふき出した。
視線を外し、口角を上げた。
ゆっくりと本から片手が離れて。
彼の長い指が、柔らかな手のひらが、僕の手を握る。
綿を包むような爽やかさで、僕達は手を繋いだ。
胸が痛い。
喉が熱い。
涙が流れそうになる。
感激だろうか?
感涙が適当か?
また、くだらないことに固執している。
でも、これが、どうしようもなく僕という人間で。
どれほども超えて彼を好きになってしまったのが、僕なんだ。
彼の視線が、再び僕を捉える。
睨まれてはいない。
包まれている、と感じた。
これほどに優しい視線は、どうすれば創り出せるのだろう。
僕には、とても真似できない所作。
彼を彼たらしめる、理性と本能の微細テクスチャ。
「ありがとう。その返事が聞けて、本当に嬉しい」
その言葉を聞いて、僕の身体の半分は脱力した。
嗚呼。
良かった。
本当に嬉しいのは、僕も同じだった。
安堵から溜息が漏れる。
気づけば、自分の膝が笑っていた。
少なくとも、拒絶されるようなことはなかった。嫌われてもいないらしい。それだけでも満点だと評価できる。
「じゃあ、えっと、僕達の気持ちは同じってことで間違いないのかな」
僕の残りの半分が、更なる安堵を求めて言葉を催促する。この耳で聞くまでは、やはり完全に落ち着くことはできない、という人格の主張だ。
「まだ、時間ある?」
「あ、いや、そろそろ授業が始まる」
中庭に設置された不可解なデザインの立体オブジェ、その上部に埋め込まれたアナログ時計をちらと見て、僕は答える。
「あとで、また会える?」
「うん。君の授業が終わるまで、ここで待ってるよ」
手元の本を軽く持ち上げながら、彼は、そう言ってくれた。
「分かった。じゃあ、また後で」
「うん。行ってらっしゃい」
僕達は、言葉を交わして。
繋いだ手を。
叶ったばかりの、夢のような繋がりを。
いましばらくの間だから、と理性を働かせて、ほどいた。
テイラー展開について学び、その講義を聞き終えた後、僕は小走りで構内を抜け、中庭へと戻った。
約束通り、彼は先程のベンチで、先程と同じように本を読んでいた。本当にずっと、ここで待っていてくれたらしい。ちなみに彼の手にある本は画集で、どうやら西洋の油絵の紹介と、その描き方、時代考証と各専門技法について解説しているもののようだった。きちんと捲って内容を確認したわけではないし、理科学系専攻の僕とは畑違いの分野であるけれど、これも興味の対象であり、興味深いものではある。美しいものは好きだ。歴史も、創作物も、人も。
「おかえり。授業、どうだった?」
「ただいま。うん、面白かったよ」
「授業は、どんな内容だったの?」
本を閉じながら彼が聞いた。
「内容? ええっと、テイラー展開についての大まかな概要と、その代表的な活用方法についてが主だったかな」
「すごい、全然分からないや」
そう感想を述べて彼は笑った。
「絵画が好きなの?」
僕は画集を指しながら聞く。
「うん、大好き」彼は素直に頷いた。
「自分でも描いたりする?」
立ったまま会話していた僕は、同じベンチの、彼のすぐ隣に腰かけながら質問を重ねる。我ながら、意外なほどの積極性と行動力だ。
「するよ。描きたくなった時にだけだけど、キャンバスを立て架けて、絵の具のパレットを用意して、椅子に座って、画家の真似をして描くんだ」
「すごく本格的だね。それって、サークルで? もしくは趣味で?」
「サークルには所属していないんだ。だから、完全に趣味だね」
「将来は画家に成りたかったりする?」
弱い風で揺れる彼の髪に目を奪われながら、僕は問う。
「成れたらいいな、絵描きだけで生活ができたら素敵だな、くらいのイメージかな。理想的だとは思うけど、現実的じゃない。そうでしょう?」
プレパラートのような軽さと透明度で彼は言い、微笑んだ。
「実現するのは、うん、難しいだろうね。どの国の社会もデジタル化が著しいし、国内は不景気で、ヴィンテージ的な価値を有する物への新規参入は、それだけで高難度だと思う。絵画市場の規定化はなされてから久しいし、参入人口も年々減少傾向にあるだろうから、つまり資金が動かないってことで、新人画家や新参業者ほど儲からない仕組みになっているはず。僕もその業界に詳しいわけじゃないから、一般的な経済統計学を基盤にして考えた素人仮説だけれどね」
「君のその論理的なところ、好きだな」
彼は微笑みながらそう言って、人差し指の先で、僕の手と、指先同士を絡める。実に器用だ。
「僕は、見ての通り、こんなだからさ。曖昧で、ふらふらしていて、だらしがない。きちんと現実を捉えて、社会を視ている人が隣にいてくれると、一緒にいてくれると、安心するんだ。勝手な言い草だよね」
「良いと思うよ。それくらいで」僕は答える。
「実益の見込めない、妄想的な理想を掲げていても?」
「誰だって理想の始まりは、単なる妄想だよ。その曖昧な空想を実現するために、年月を重ねて、努力を重ねて、資金を投じて、自分自身を投資する。掲げるものがなければ、何も始まらない。起点がなければ、あらゆる変化も反応も起こり得ない。人間には、目標が必要なんだ」
「ホントに理系だね」彼が笑う。
「実際、理系だからね」僕も笑った。
「ねえ、コーヒー飲みたくない?」
彼が提案した。
「そうだね。学食行こうか」
僕達はベンチから立ち上がり、彼は本を、僕はプラスチックケースを手に取って歩き出す。
先程まで絡めていた指は離れて。
僕と彼は並んでいるけれど。
これまでとは全く異なる距離で。
勿体ない、と感じた。
身体的にも、心理的にも、接近できていた数分前が惜しくて。
とても、とても、近づけていた、そのはずなのに。
寂しい、と感じる。
指先一つで、これほどまでとは、予想外だ。
これが恋の作用だろうか?
それとも、単に僕が寂しがりなだけだろうか。
「仮にさ、自分の描いた絵が売れたとて、描いたその本人としては、どんな心理状態になるの?」
中庭を横切り、建物内に入りながら僕は彼に質問する。
「値段が付いて嬉しい? 価値を評価されて嬉しい? 自分が時間と技術を投資して完成させたものが自分の手を離れて寂しい? その全部を同時に感じる?」
「あぁ、どうだろう。そうだなぁ。僕の場合は、お金になって嬉しい、が真っ先にくるかな。評価してもらえて嬉しい、この絵を欲しいと言ってもらえたから嬉しい、っていう感情も遅れてやってはくるだろうけど、でも、どちらかというと僕は、描きたくて描く、描いてることが楽しいっていうタイプだから、描き終わった絵に対しての執着というか、きちんと管理しておきたい、長く残しておいて欲しい、っていう欲求は、あんまりないんだよね。こんなだから、もしかしたら画家向きじゃないのかもしれないけれど」
彼は視線をぐるぐると動かしながら応えてくれる。
「がめつさというか、ストイックさというか、創作に対する姿勢? 紳士的な志向っていうのかな、そういうものが僕には欠けてると思う。だから、どれだけ描いても、趣味の域を出ない気はしてる」
「なるほどね」僕は頷いてみせた。
絵を描くことが趣味で、将来の夢が画家に成れたらいいな、というのは、とても彼に似合っている。長くて綺麗な彼の指は、絵の具を塗るための筆と完璧にマッチするだろう。彼がキャンバスを前に集中するさまも素敵だ。空想しただけでそう感じるのだから、その光景を前の辺りにしたら、僕は感動から失神してしまうかもしれない。その構図自体を絵にしてもいいくらいだ。繊細な手元の動きと、その背後で微細に揺れる彼の金色の髪。神聖で美しい空間は、一つの芸術として成立する。
「絵は、描いて長いの?」
「小学生の頃からだから、そろそろ八年、九年くらいになるかな」
「すごいなぁ。僕、そんなに長く続けられた趣味ってないや。飽きたり、嫌になったりしないの?」
「う~ん、飽きることはなかったけど、嫌になる瞬間は、どうしてもあったよ。上手くかけなかったり、出来上がった作品が、どうしても自分の納得のいくものじゃなかったり、とかね」
「それでも続けられるのがすごいね」
「多分、そういうことがあるから、続けられたんだと思う」
言いながら、歩きながら、ふと、彼の右手が、僕の左手に触れた。
彼の右手。
僕の左手。
互いの手の甲は同じだけの熱を有していて。
彼の指先だけが、少し冷たかった。
帯びずにはいられない。
人としての熱を。
恋を絡めた情を。
「何もかもが簡単に進んでしまったり、自分にとってばかり都合良く、ことが素直に運んでしまうと、それこそ、すぐに飽きちゃうんじゃないかな」
絵についての話を、彼は続けてくれる。本当に好きなのだと知れる。
「だから、失敗したり、挫折しそうになったりする、そういう経験も必要?」僕は聞いた。
「沢山は嫌だけど、でも、そうだね。少しだけあった方が、長続きするだろうし、より頑張れるんじゃないかな」
「僕は……あまり失敗とか、挫折は、経験したくないかな。成功させられるなら、その方が好き。何事も、誰が相手であっても」
時折触れていただけの手を、僕は握った。
自らの意志で、彼の細い手を、しっかりと。
痛くないように、だけど、離していたくなかったから。
繋がれた手へと、彼が視線を落として、次いで、上目遣いに僕を見た。
綺麗な目。
その目が、僕を見る。
背景には金色が在る。
彼の後ろで揺れて、彼の輪郭に纏い、彼の胸や首を流れる金糸。
僕には絵心というものが皆無だけれど。
この瞬間だけは、彼の姿を絵に描いてみたいな、と発想した。
筆を握って、色を使って、幻想と現実が織り成す絵画世界に相応しい、明るい魅了。
そんな形として、是が非にも、この世に遺したいと。
「絵の話だよね?」彼が聞いた。
「心構えの話でもあるかな」僕は答える。
「こだわりとか、理想への?」
「僕はそう解釈したよ」
「もう、建物の中だよ」
通路の先を、ちらと確認しながら彼が言う。
「そうだね」僕は頷く。
「中庭とは違うよ。人が多い」
「そうだね」僕は頷く。
「いいの?」彼が問う。
「何が? とは聞き返さないよ。僕はその覚悟で、君に告白したんだから」
僕のその答えに、彼はにっこりと笑った。
繋いだままの互いの手の向こう、その顔は、本当に嬉しそうに見えた。
学食のコーナに入り、コーヒーを買った。二人共ブラックだ。
紙コップのそれを持って窓際まで移動して、対面できる席へと座る。
互いにコーヒーを一口飲んで、それから自然な流れで会話を再開。
「聞きたいことがあるんだ」
彼の目を見つめながら僕は告げる。
「僕は、君に伝えておきたいことがあるよ」
彼は人差し指で自分の胸元を指しながら言った。
「あ、じゃあ、先にいいよ」
「いや、大したことじゃないから、先に君の話を聞かせて欲しい。僕、堪え性がないから」
「分かった。じゃあ……」
笑ながら相槌を打った後、僕はずっと知りたかったことを彼に直接聞く。
「どうして、僕を選んでくれたのか、それを聞いてもいい?」
「ああ、そうか。それは手紙に書いてなかったね」
彼は微笑みながら、数回頷いてみせた。
「直感的に惹かれた部分もあるから、ひと目惚れでもあるわけなんだけど、気持ちがはっきりと固まったのはね、新入生の人達の中で、君が一番真面目そうで、一番真剣に映ったからかな」
「え? じゃあ、その、僕のこと、結構観察してた?」
「大学の中で見つけられた時だけだったけど、実は、そう。ごめんね」
「いや、謝らなくていいよ。僕も似たようなものだったし……でも、そっか。僕に一目惚れで、真面目で真剣な部分に……う~ん、どうかなぁ……本人としては、自覚が全くないや」
僕は首を傾げる。
彼が言ってくれた通り、不真面目ではないだろう。
自棄になったり、悪い生き方もしていないとは思う。
けれど、人様に褒めてもらえるような生き方かと問われたなら、どうにもそうは思えない。
特に彼と比較すると、僕はあまりに平凡で、無味で、当たり障りがない。無個性だともいえる。真面目で大人しいという人格は、一般的には好感を抱かれやすい評価基準であるけれど、同時に誰にでも成せるもので、いわば量産型、替えの利く存在としても認識されやすいという特徴が並ぶもの。僕自身、そのように自己評価している節がある。
流行りの髪型にしてから入学したし、流行りの服装を調べて自分のファッションとした。流行りの鞄を買ってきて、周囲からの批評をいなし、個人として浮くこと、無用な警戒心を抱かれないように備えた。遡れば、中学中盤から高校に入った辺りから同じような精神状態だったし、私生活もほとんど同様だった。周りのクラスメイト達が勉学に身を入れ始めたので、僕もそれに倣った。テストの点数や知識量、記憶力が重要だとされたので、それらを重点的に伸ばした。そうした努力の先にあるのは安定した将来、不自由のない生活を獲得するためだと教わり、また自分自身理解したので、選択肢を増やすために理系へ進み、この大学を選んだ。
おそらく、これで間違いないだろう。ここまでやっておけば安心できるだろうか。手堅く固めて、大きく間違っていない方向を選びたい。嫌々やっているわけではないし、こうした備えと繰り返しは僕に安心をもたらしてくれる。余計な不安を抱かずに済む。そうした動機から、僕は今のスタイルを確立した。意識的であったし、無意識的でもあった。自分の為を思ってのことで、自身の自信を得る為で、人生を大切にする為なのだから、悪くはないだろう。無駄でもなかったと思う。
そう。
自らの意志で、繰り返してきた。
今も、自分の意志で、積み重ねている。
納得のうえで。
己の為に、と。
それなのに。
時々、分からなくなるんだ。
自分の本質が。
本物の自分が。
目標の為なのか、目標へと進む自分自身を演出しているだけなのか。
僕は納得をして進んでいるはずなのに、僕の中の誰かは、もしかして納得できていないんじゃないか、って。
そんなふうに分からなくなる。そんな瞬間が、ごくたまにある。
病んでしまっているわけでもなくて、どうにも耐えられないとか、そこまで大袈裟に悩んでいるわけでもない。
ただ、他にないのかな、と。
これ以外に、今の自分以外の姿に、未練や好奇心は向いていないのかな、と。
頭の中の何処かで、考えている自分のような何かがいる。そんな感覚がよぎるのである。
僕は彼へ、これらを正直に語った。
この頭の中で構築した理屈を、僕を悩ませるものたちを、どうにかアウトプットしてみた。
彼は、聞いてくれた。
口を挟まず、僕の目から視線を逸らさず、たまにコーヒーを飲みながら、テーブルの上で手を繋いでくれたまま、最後まで静かに聞いてくれた。これだけでも、とても嬉しかった。自分の本音を真摯に受け止めてくれる人がいる、という事実は、それだけでも精神に安寧をもたらしてくれるのだと学んだ。
「ごめんね。僕を選んでくれた理由を聞いたのは僕で、君は僕を褒めてもくれたのに、こんな情けない自分語りをしちゃって」
「聞かせてくれて嬉しかったよ」
柔らかく表情を崩しながら、彼は応えてくれる。
「僕以外には話したことないんでしょう?」
「うん」僕は素直に頷く。事実、人に打ち明けたのは初めてだった。
「だから、嬉しい。君しか知らないことを僕だけに話してくれたことが嬉しいし、僕が伝えた君の魅力、君の長所に映ると話した内容を受けて、そのことについて、こんなにも真面目に考えてくれたことが、言葉にして気持ちを介してくれたことが、嬉しい」
「その、ありがとう」
胸が熱くなった僕は、どうにかお礼だけ絞り出した。それ以外の反応は難しかった。
「でも、こうして向き合って、言葉を交わしてみると、やっぱり君は素敵な人だと、改めて思ったよ」
カップの中のコーヒーを飲み切りながら、彼は言った。
「本気で物事に取り組んでいる人や、本気で生きている人と、話をしてみたかった。できるなら、触れ合ってみたかった。そういう人から、何事かを学びたかった。自分にも応用できる重要なことを、成長するきっかけ、っていうのかな。効果的な刺激みたいなものが、とにかく欲しかったんだ。大学の中で何度か君を見かけて、君は僕を見つけてくれた。君はずっと勉強をしていたよね。本や資料を手放す瞬間が全然なくて、君自身のルーティンを曲げたりもしない。外側は一般的で平均的な大学生を演じていたとしても、君自身の特徴は隠せていなかった。そのおかげで、僕は君の魅力に気づくことができた」
テーブルの上で繋いだ手。その手の指が、彼の指が、器用に僕の手の甲を撫でる。
彼からの気持ちが伝播してくる。
これほど些細な動作からでも、しっかりと到達するから、まったく不思議だ。
人間同士の好意というものは、物理学の法則を簡単に超越してしまうのだろう。
「君は間違ってない。間違えてはいない。もし足りないと感じる何かがあって、その正体が分からないのなら、それは自分の選択に対する誤りじゃなくて、自分以外からの補強じゃないかな。自分自身が破格に強靭で、成熟した精神を成しているからこそ、独りでひとりでに先へ先へと進めてしまう。それが叶ってしまう。その距離感が空虚さを生んでいるんじゃないかなって、僕は君の話を聞いて思ったよ」
「距離……そうなのかな」
「表面上は認めてもらえても、実績として評価してもらえても、君自身への言葉じゃない。君の本質へは干渉し得ない。君自身も、誰彼構わず関わってきて欲しいわけじゃなかったんでしょう? 沢山の人に理解して欲しかったわけでもなくて、だけど、孤独に片足は浸かっていた。そうした差異が、微妙なズレが、心理的な不一致としてあったんじゃないかな。納得できない自分を自覚して、でも、何に納得できていないのか、そこが見つけられずに、曖昧だった」
「そう……そうかもしれない」
僕は頷き、彼へ笑顔を向ける。
「すごいね。僕以上に、僕を分かってるみたい」
「そうして頑張る君の姿へ憧れを抱いて、溢れた羨望の気持ちがね、恋へ転換したからさ」
魅惑的な角度へ首を傾げて、彼は続ける。
「悩みへの感想としても、僕が君へ恋をした理由としても、どうにも押し付けがましいかもしれない。それらの点だけ、申し訳ないなと思う」
「いや、いいんだよ。恋はきっと、そういうものなんだ」
僕は応える。
「押し付けてくれなきゃ、伝えてくれなきゃ、分からない」
「うん、そこが問題かな」
「問題は解決したから」
僕は繋いだ手を持ち上げてみせる。
それを見て、彼も微笑んでくれた。
想いが伝わることは奇跡だ。
好きになった相手が、自分のことを好きだと返してくれることは、この上ない幸せで。
好きだという好意の感情は、その相手を解する為の労力を惜しまない。
好きだから、好いているのだから、というたった一つの動機だけで、その相手へ尽くすことすらも幸福だと信じられる。
その相手を理解しようと進み、理解することで喜びまでもを得られる。幸福だけの循環が在る。
だからこそ、多くの者が恋を求めてやまないのだろう。
だからこそ、一度でも手にしたなら、決して離したくないと願うのだろう。
僕の場合は、少しだけ異なるかもしれない。
どうか、どうか、と願うよりも、僕自身の力で、繋ぎ止め、そして、この先も紡いでいくと決めた。
細く不安定な糸も、結って束ねれば太く、強固になると知っているから。
温かい気持ちに包まれながら、ずいぶん冷めてしまったコーヒーを飲んでいると、僕達が座っている場所からみて斜め奥の丸いテーブル席に、いつだったか、こちらを見て話をしていた女学生達が座っていることに気づいた。
ちらちらと頻繁にこちらを伺い、時折スマートフォンを構えてくる。その様子を眺めていると、彼も振り向いて、彼女達を認識した。
黄色い声が上がり、話しかけに行くかどうか、という大きな言葉がここまで届き始めた矢先、彼が僕の方を振り返り、繋いでいる互いの手へと視線を注いだ。僕は、にっこりと笑い、頷く。
僕の反応を認めた次の瞬間、彼は繋いだ手を頭上に掲げ、彼女達からも見えるようにした。
彼は向こうのテーブルへと顔を向けて、空いている方の手を軽く振って見せた。向こうのテーブルから嬌声か悲鳴のような大音量の高周波が発せられて、僕と彼は思わずふき出した。
交際を始めると、こういう出来事もあるのだな、と学んだ。
「それで、僕に伝えておきたいことって?」
大学の敷地内、別館の材料・機器保管棟の裏口その石段に腰かけながら、彼に聞いた。
あの後、昼食時ということもあって学食内が混雑してきたので、僕達は売店で食べ物とコーヒーを買って外に出た。落ち着いて話ができる場所にどこが良いかと話ながら歩いて移動し、ここへ決めたところだ。
「ああ、そうだった。それがまだだったね。忘れてた」
サンドイッチの包装を開けながら彼は応える。
「実は僕ね、ここの学生じゃないんだ」
「えっ?」
おにぎりの包装を開けていた手を止めて、僕は彼の方へ顔を向ける。
「それってつまり、聴講生ってこと?」
「いや、完全に部外者」
悪戯っぽい顔で笑いながら、サンドイッチを食べつつ、彼は話す。
「ここの非常勤講師に知り合いがいてね、その人が出勤する際に予定が合えば、こうして遊びに来てる。あとは、ここに進学した高校時代の友達もいてね、たまに会って、どんな授業があるのか、どんなことを学んでいるのかを教えてもらって、勉強を見てもらったりもしてる。ようするに、ふらふらしているだけ」
「あぁ、だから、僕と授業が被らなかったんだ」
僕は口を開けたまま頷き、納得した。
なるほど。こういう事情だったのか。
どの授業も、どんなタイミングでも、合わないし、会えなかったわけだ。姿を見ない日があるのは、そもそも大学に来る用事がなかったのだ。確率が絡む由縁。ランダム性の介入。会える時と会えない時が極端に分かれるのは必然の事項であった。
「その人達に会いに来た時は、どんな話をするの?」
ようやくおにぎりの包装を取り払って、僕は聞いた。
「友達からは、君が話していたような物理系の授業内容や、計算に関するものが多いね。僕はどちらかというと文系で、頭もそういう造りだから、概念として聞くのは面白いけど、実際の式を見せてもらうと、全く理解できなかったよ。先生の方は、美術系の話が多いかな」
「芸術系の先生なの?」
「いや、専門は建築学なんだけど、担当してる分野がヨーロッパの建築様式で、あの時代に関するものって、絵画とか美術史にも頻繁に絡むんだ。で、僕が絵を描くこと、絵画が好きなことを人づてに聞いて、こうして直接会って話をして、それから、色々教えてもらえる関係になったんだ」
「やっぱり、絵を描く人間としては参考になる?」
コーヒーに口をつけながら僕は聞く。
「うん、とっても」彼は頷いてから言葉を続ける。
「描くための技法もそうだけど、昔の人達がどういう道具を使って描いていたのか、当時と比較して現代はどれくらい進歩したのか、時世を反映した風刺を描いていた事実や、現代でいうところの漫画のようなストーリィ性を持たせた絵が流行っていたり、特定の内容を描くことが規制されていた時期や法令があった、とかね。描いてみたい題材、絵描きとしての糧以外にも、あぁ、知ることって楽しいんだな、勉強って呼称でも、その方法や目的対象が変わるだけで、こんなふうにすんなり自分の中へ落とし込めるんだなって、感動したりね」
「あぁ、その気持ちは分かる。結局は、その内容に大きく左右されたり、自分が興味を惹かれるかどうかだったりするよね。それが、学びたいかどうか、自分が関わりたいかどうかに繋がるし」
「そう、そうなんだよね」
サンドイッチの残りの一切れを食べ終えながら、彼は頷いて同意してくれた。
僕はおにぎりを食べ終えて。
コーヒーを飲む。
彼は、そのまま。
片手にサンドイッチの残りを持ったまま。
目の前の風景を、その奥に立つ大学の建物を眺めている。
いや、違う。
おそらく、彼の目は、それらを認識していない。
別のことを考えている。それが分かった。
彼の目が、その表情が、先程学食で彼に打ち明けた、僕の中のもやもやに、人間が悩む際の蔭を纏っていたからだ。
「できるなら、叶うなら、画家になりたい、そのはずなんだけどね」
ぽつりと、彼は呟いた。
「自分が興味のあることは何だろうって考えると、やっぱり絵かな、って思いつく。でも、とても実現できるとは思えない。昔ながらの画家として生活しようとするのは、さすがに時代錯誤だと僕自身感じる。油絵以外にも絵を描く職業は溢れてる。デジタルならイラストレータの方が強いし、最近だと、AIのこともあるよね。絵描きという職が生き残るのは、今後更に難しくなるかもしれない。趣味として絵画を描くなら、いくらでも叶う。個人の自由だからね。僕の好きにできる。好きな時に好きなだけ、好きな題材で好きなように描いていい。素晴らしい自由度だよね。ただし、お金にならない。うまくいけば、お小遣い程度にまでは引き上げられるかもしれないけれど、投資する時間と努力に見合わない。好きなことをしているだけじゃあ、生活できない。自分一人満足に生かすこともできない」
「画家になれないことが、画家が実現できない時代が、悔しい?」
思い切って、僕は聞いた。
「それがね、言うほど悔しくもないんだ」
困ったような表情をこちらへ向けて、彼は答えた。
「多分、僕自身、夢らしい夢だと自覚していたんだろうね。思い描くには素晴らしいけれど、叶えられそうにはない。子供の頃に語るなら、周囲に微笑ましく受け止めてもらえるけれど、成人する頃になって同じことを言っていたら、顔をしかめられるような、認めてもらえないような、そんな夢だって分っていた。だから……」
「見失った?」
僕が次いだ問いに、彼は笑って頷いた。
「よく分かったね」
「詳細は異なるけれど、僕と似てたから」
「そうだね。僕達は、似た者同士だったわけだ」
彼は頷き、コーヒーの入ったカップを石段に置いて、僕の手と、小指だけを繋いだ。
「君は、自分の中で迷っていた。僕は、自分の行先を見失っている」
「似ているね。ベクトルが違うだけだ」
「僕は、こんな性格だからさ。地に足がついていないのは昔からのことで、一つダメなら、見切りをつけるなり、諦めるなり、切り替えるなりして次へ行けばいい、そう考えることが多いんだ。しつこさや、固執するのが疲れるっていうのが、その理由かな。これまでは、そうしてきた。それでも困らなかった。そうしたかったし、それでいいと思ってた。だけど、今回はそうはいかない。決めなくちゃいけない。どんな分野へでもいいから、進まなくちゃいけない。やりたいか、やりたくないか、それも考慮はするけれど、やっぱり、これまでと同等の理想通り、とはいきそうにない」
「それを探すために、こうして大学を出入りしていたんだね。先生に話を聞いて、友達とも話をして、大学っていうものを観察しに来ていた。今後の選択のために、自分がどこへ進めばいいのか、どの方向へ進みたいのか、その答えを探す参考になれば、って」
「君は僕以上に、僕のことを理解してくれているね」
彼は僕と同じ言葉を使ってくれたあとで、微笑み、ようやく残りのサンドイッチに手をつけながら話し続ける。
「そう。そのために立ち止まってる。毎日絵を描いて、本を読んで、誰かと話をして、手が届くところの情報を漁ってる。ある意味では充実してる。でも、こんな過ごし方を長くは続けられない。お金持ちじゃないからね」
「将来と、自分のやりたいことかぁ……やっぱり、悩むよね」
彼と肩をくっつけつつ、コーヒーを一口飲んでから、僕は呟いた。
今をやり過ごすことに、多少の労力を割いてはきた。先を見据えて知識を蓄える為に、学問に近しい場所に居ることを選んだ。これらは全て将来を見据えてのことで、しかし僕自身も、自分が最終的にどこへ腰を据えるのか、自分はどのような者になりたいのか、どの分野へ突き進んでいくつもりなのか、そういった点は、彼と同じく不透明だ。
時間を、日々を、活かさずに捨てているなんて自覚は全くないけれど、現状の良し悪しとか、自分への向き不向きを常に意識していたかといえば、そうでもない。大筋から逸れてしまわないよう、皆が言う最適解の生き方をしていれば間違うことはないだろうから、ルートを外れてしまわないように気をつけていよう、いつでも、その程度の認識であったように思う。
自分に関わることのはずなのに、どうしてこれほどまでに曖昧でいられたのだろう?
きっと、真面目に考えることが恐かったのではなかろうか?
自分には合わないかもしれない、知らず知らずのうちに、間違っているかもしれない、そんな仮定を組み上げるだけで、これまでの努力が、自分という人間が、宙に浮いてしまい、そのまま身動きが取れなくなってしまうような、落ち着かない妄想に囚われることを嫌ったのだ。
逃げ出した、というほど距離は空いていないけれど、向き合っている、とも評価し難い。背を向けたまま立っている、そんな感じ。
そんな僕に変革をもたらしてくれたのは、他でもない彼だ。
まだ些細な変化だけれど、それでも、これまでの僕とは明らかに異なる。
誰かを好きになったのは初めてで。
告白をしたのも、彼相手が初めてで。
これまでのスタイルを変えてみてもいいかな、なんて軽く発想できたのも、彼のおかげ。
彼に見てもらいたい、彼と共有したい、彼と共に試してみたい、彼に相談をして、その上で決めたい、そんな多彩な事項が次々と浮かんでくるのもまた、彼の存在あってこそ。
意識を向けるべき方向は、彼が教えてくれた。
真の選択とは、苦痛を伴わない変化とは、恋とは何かを、それらの本質を教えてくれた。
だから僕も、彼の力になりたい。何を返せるものか分からないけれど、御返しがしたい。お礼がしたい。純粋な意味で、多義的な意味でも、とにかく彼の為に、という思考。
どうすればいいだろう?
なんと言えば伝わるだろう?
ああ、もどかしい。
こういう時、言葉は不完全だと感じる。数式やプログラムなら、もっと明確で粗無く、余分もなく、的確な解だけを晒してみせられるのに。
だけど、そう。
不完全だからこそ、大きくもがきながら苦心するからこそ、大切な人へ気持ちは伝わるのだろう。
どうしてだか、そういう造りになっているのだ。人間という生き物は。
「僕さ、君の髪が好きなんだよね」
「髪?」
唐突に発した僕の不可解な発言に、しかし彼は不思議そうな、優しく純粋な表情で反応してくれる。
「大学に入って二日目の朝にね、君が歩いているところを初めて見たんだ。正門からすぐのところでね、君を見て、君の髪がなびく様子を見て、すごく惹かれたんだ。綺麗だな、美しいな、って」
口を動かしている自覚はあったけど、自分が語っていることがどこへ向かおうとしているのか、僕自身全く分からない。
「誰かに対して、同性に対しても、そんなふうに感じたことがなかったから、驚いた。少しだけ動揺して、でも、同時に、羨ましいとも感じたんだ。君の自由さや、君らしさに対して、素晴らしいことだって、だからこそ惹かれるんだろうなって、解釈した」
彼は静かに僕の語る内容を聞いてくれながら、首筋辺りの自分の髪を指先で触っている。これか、という表情で。
「だから、勝手な印象というか、いや、正確には、僕の理想なんだけどね。あの時感じた君らしさそのままに、失わないように、無くしてしまわないように、君のままで進んでいけるもの、大きく変わる必要のない、ほとんどありのままで成れる職業が向いているんじゃないかな」
「僕らしく、ありのまま、そのままに……」
指先で金色の毛先をつまんだまま、口から単語を零す彼。
「いや、ごめん。本当に勝手なことを言ったね。全然具体的な提案じゃなかったし、関係性も希薄だった」
「ううん、そんなことないよ」
彼は顔を上げ、僕を見て応える。
「ちょっと、分かったかも」
「えっ? その、何が?」
「まだ曖昧だけど、分かったかも、っていう感覚は掴んだ」
「ええっと、それなら、良かった、のかな」
「良かったんだよ。ありがとう」
腑に落ちず首を傾げ、眉を顰める僕に。
石段へコーヒーのカップとサンドイッチの空外装を置いてから。
彼が。
抱きついてくれた。
抱きしめてくれた。
嗚呼、こんな感じなんだ、という感想。
こんな気軽に抱きついてくれるんだ、という驚き。
好きな人って、抱きしめてもいいんだ、という感動。
急速に溢れ出る多好感。
泣きそうになるほどの多幸感。
こんな時にまでか、と呆れる多考感。
思いつき。
彼の背へ両腕を回して。
僕も、彼を抱きしめ返す。
細くて、華奢で、少し危うい。どれも似たような意味の言葉だ、と自解。
胸の内が震える彼の匂い。背後へと回したこの手に触れる、柔らかな金色の感触。
背を撫でて、彼の髪を指先で梳いて、彼の頭を片手で撫でる。
彼が少しだけ身を引き、互いに顔を合わせる。
顔が見れる。
目が合う。
澄んだ目が。
暗雲が払拭された瞳が。
おそらくの依存と、恋の色を伴って。
僕を捉えている。
乞うている、と受け取る。
「もう少し、段階を踏んでからの方がいいかな?」僕は聞いた。
「段階は、もう踏んだよ」彼は答える。
ややも、近づいて。
鼻先が触れて。
その先で。
僕達はキスをした。
言葉で築いて、黒を払って、晴れやかな気持ちを引き上げた。
探していたものに、ようやく手を触れられたような。
未だ不確かで、だけど心穏やかと感じる瞬間を。
互いに両手で、違いなく抱えることができた。
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