プロローグ 「ここから」

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プロローグ 「ここから」

 映る境界。  触れる世界。  漠然としている。  意識している自分。  囲いの中に座る自分。  ここに居ると自覚して。  ここに居ると選択した。  僕という人間は此処に。  目の前には色があって。  僕の周囲には音がある。  それは人がいるからで。  人が集まる場所に座っているからだ。  意図してようやく、細部までピントが合う。  別の思考が重なっていたせいだ、と僕の一部が述べた。  弁明か、考察か、はたまた次元の接合面からのぞく不連続か。  大学の講義室。壇上では、教授が線形代数について解説している。  いつもの光景。いつもの時間。流れる時間。貴重な時間。二度はない時間。  擦れた茶色の机と固い椅子。湿度を含んだ空気。まだ覚醒していない空間。  朝は、いつもこうだ。時間が早ければ早いほど、人は微睡みを引きずったまま行動する。  左右に視線をやってみれば、机に伏して眠っている者、ぼんやりとした目でスマートフォンを触っている者、講義などまるで聞いておらず、隣同士で話をしている者などが多い。  僕は、といえば、変わりがない。  頭の半分は真面目に講義を聞いているし、教授が話している内容も理解している。このまま内容を突き進め、ベクトル空間までテーマを移行させても平常に理解できる自信がある。  こうした集中力の差異は、しかし個々人の体質にも由来するだろう。そのため、他人の行動について、とやかく言うつもりはない。前提として、僕にそんな資格はないし、そんな真似をしたいとも思わない。同じ空間にいる程度の関わりで、他人の人生に干渉する筋合いはない。  ああ、居眠りしているな、とか、他のことをしているな、と認識するだけ。  自分は、時間帯の影響で身体に不調が起きにくい体質なのだな、と分析するだけ。  ともすれば、不連続と評価するには、しかし連続しているな、とも思う。  時間断層の歪みは、あまりに小さい。切り離して考えることはできるけど、根本から異なると主張するには、あまりに癒着している。個人の集合が社会を成すように、群れから個人を引き離すことは容易ではない。その斑に似た法則は、拡大してみれば世界の循環にさえ適用できる。繋がりは意図して紡がれ、ひいては無意識のうちに、僕達人間を支配しているのである。  目だけを動かして思考を切り替える。  教室の片側、窓の外を見た。  空は濃い灰色。太陽は引っ込み思案中。相変わらず雨が降っている。変化といえば、霧雨になったようだ。靄が動いていて、明確な雨音は聞こえない。じっとりと湿度だけが室内まで届く。暑くはないけれど、気持ちの良いものでもない。  暦が六月であることを思い出して。  そうか、梅雨の時期に入ったのだな、と納得して。  高校生の頃よりも時間の流れが早いのではないか、という些細な疑問を抱いて。  それから、彼のことを想った。  連想とは、人が持つ独特の機能その一つであり、歳月を経るごとに培われ、そして尊ばれる軌跡。  これにより、彼と出会ってから、二か月あまりが経過したことが知れる。  あぁ、早いものだな、と思う反面、まだまだ時間が足りないとも考える。  彼と過ごす時間が、彼のことを知る時間が、彼と過ごす時間が、もっと欲しい。  そんな欲求を、僕は覚えた。  珍しいことだ。少なくとも、僕という人間の特性に照らし合わせると、そう判断できる。  今日は、どうしているだろう?  いつものようにコーヒーのカップを両手で包み、学食の席に座っているだろうか。  図書室の端、定位置と決めた場所で小説を読んでいるだろうか。  文章よりも絵に関わりたい気分で、画集などを眺めて過ごしているかもしれない。  まさか、この天気の中、中庭のベンチに座っていたりはしないだろう。身体の芯まで濡れてしまい、風邪を引いてしまう。  独り、静かに微笑む。  そんな不可解な、予測を平気で通り過ぎ、呆れてしまうような、思わずふき出してしまうような、どうにもあり得ないではないか、という状況が、しかし彼の場合、簡単に想像できてしまう。  彼は、常識に当てはまらない。  彼なりに自由で、彼自身が信じる自由を重んじていて、故に、真の自由とは何かを体得している。  自由とは何かを騙ることは容易だけど、自由を得ている者は極端に少ない。これは、自由を求めてやまない総数ほど多く、自由を得るために自由の本質を見据えようとする者の少なさに起因する。  物事の、社会の、あらゆる仕組みの骨組み、見えづらい本質へと近づくためには、極端な話、世捨て人にでもなるか、社会性の部分的な排除を試みるか、という取捨選択が必要となる。強固な地盤と常識的なバックアップに抱えられたまま、原初の真実に触れることは叶わない。人間が創り上げた塊を身にまとったまま、どうして人間以前の歴史と対峙することができるだろうか。  そうしたものを、彼は振り払った。  恐れを感じたかもしれない。彼なりに失ったものもあっただろう。  それでも、彼はそれを選択した。  強制されたわけでなく、自らの意思で、現在の道へ踏み出した。  たったこれだけの差異が、彼と彼以外を分けるのである。  当然、僕とも。  僕は机上に置いた、長方形の立体プラスチックファイルから一枚の手紙を取り出して、広げた自分のノートの端に載せる。  読むわけでもなく。  ただ、置いただけ。  見える範囲に欲しかっただけ。  内容は既に暗記している。だから、読み返さなくても頭の中で再生できる。  文字としても、音声としても、自分の声でも、彼の声に変換してでも。  文章として、朗読として、立体に起すことができる。  でも、そうじゃない。  そういうことじゃないんだ。  これは、彼からもらった大切な手紙で。  彼が僕へ向けて手書きしてくれた品で。  唯一無二の、彼にまつわる品で。  彼と僕を、直線で繋ぐもの。  関わりを明示してくれるもの。  明確な始まりではないけれど。  関係の始まりは、この手紙にまつわるやり取りからだった。  彼の姿を思い出す。  あの時の彼の姿と。  今の彼の姿を。  変わらない彼を。  己を貫く素晴らしい彼を。  彼の笑った顔。  彼の微笑んだ表情。  優しい視線と丁寧な指先。  彼が僕の頬に触れた瞬間。  彼が僕を見つめて。  僕もそれに応えて。  互いに柔らかく崩れてしまう。  表情も、姿勢も、精神も、思考も。  それが心地良くて。  他にはない感覚で。  おそらく、虜になっている。  だから、目が離せないんだ。  意識して追いかけてしまう。  無意識に惹かれてしまう。  彼との時間を欲して。  彼の視線を手繰る。  彼の姿を。  彼の背を。  彼の目を。  彼の髪を。
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