路上ライブの夜

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人懐っこい口振りで、男性の背後から肩を組むようにして、背の高い短髪の青年が現れた。 「先輩」とその酔った男性に声をかけているが、年齢は20代前半くらい。白いTシャツに黒い細身のパンツ姿の彼は、どう見ても「職場の後輩」には見えなかった。 「あぁ? だ…誰だ、お前」 今にも怒鳴りそうだった男性も、さすがに驚き後ろを振り返った。 「まぁまぁ、先輩。早く帰らないと皆待ってますよ? ね?」 さり気なく男性の肩を持ったまま、彼は駅の方へと誘導していく。だが、困ったことに男性はその手を煩わしそうに振り解くと、また僕の方へと足を向けた。 「俺が歌えって言ってんだ、歌え!」 僕を指差し、尚も食い下がる男性を、僕はもう憐れみの表情で見ていた。何か嫌なことがあったのだろうか…。関係のない他人に当たり散らす程に。 道行く人々が、騒ぎ立てる男性と僕らをチラチラと見ていく。せっかく許可取りもしたのに問題を起こしては、今後ここで演奏することを拒否されるかもしれない。 渋々、歌えそうな、そしてこの男性が納得しそうな曲をセットリストから探し始めた。 「じゃあ、先輩。俺が一曲歌うから、それだけ聴いていってよ」 「えっ? 君が…?」 僕は目も口もポカンと開けたまま、彼を見た。 どこか自信あり気にも見える、あっけらかんとした彼の表情を見て、不安と少しの期待が入り混じる。 僕のスマホ画面に映し出された、いくつかの曲名を横から見て、彼はそのうちの一つを指差した。 「これ、良くね? 皆知ってるっしょ」 それは有名な男性デュオの代表作で、過去開催されたオリンピックのテーマソングだった。 どの年代でも一度は耳にしているだろう知名度の高い曲だ。 ニカッと屈託のない笑顔を見せる彼を、僕は信じることにした。どうにでもなれ、という少し投げやりな思いもありつつ、鍵盤に両手を置いた。
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