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ムッとした湿気のまとわりつく真夏の夜。繁華街から少し離れた街を、俺は途方に暮れて歩いていた。
「レン?」
背中から、恵の控えめな声が聞こえてくる。それでも、恵の手首を掴んでずんずん歩く。この街に土地勘も無いし、目的地も決まっていない。
ただ、人目につかなくて2人になれる場所に行きたかった。
ようやく見つけた薄暗い路地裏を曲がって、恵を振り返る。恵は、瞬きを繰り返して俺を見ている。
「レン、離して」
掴んでいた手首が揺れて、俺は慌てて手を離した。
「ごめん」
「や、レン急にどうしたの?」
「恵……なんか、あったよね? どうしたの?」
「なんにもないって……そんなに聞くレンの方が変だよ、どうしたの」
恵の真っ黒い瞳が不安げに揺れる。
ライブの後、俺の横をすり抜けて会場を出て行く恵が気になって。みんなを帰した後、外に出た。
会場前で少し話をしたけれど、明らかに様子が変で。恵は普通を装っているつもりらしいけど。
俺には少しの変化も分かってしまうし、それが良くない事だって事も。
「分かるから。恵のこと」
「分かる訳ないよ」
まるで俺をシャットアウトするようなトーンで、恵は呟く。
それでも、諦めたくない。
恵の顔を覗き込んで、瞳を見つめれば恵の考えが読めるんじゃないかって。だけど恵は居心地悪そうに目を逸らす。
ライブの前に話した時はいつもと変わらないと思った。俺のことを気遣ってくれて、応援してくれて。
なのに、この短時間で何があったのか意味が分からない。
「なら……教えてよ。恵が考えてる事」
「なんで」
「知りたいから」
「なんで?」
「恵の事はなんでも知りたい」
「だから、なんで?」
恵からしたら、迷惑だろう。たけど、まだ諦めたくないし手放したくない。
ただ、恵の事はなんでも知りたいんだ。
「理由なんてないよ、恵だから」
「俺だから、なんなの」
「恵は恵だから、俺の恵だから」
分かってる。俺のなんかじゃないって。頭では分かっているのに、恵が距離を取ろうとしているのを感じて、焦ってそんな事を口走ってしまった。
「変なの」
恵は俯いたまま、小さな声で呟いた。分かってる、変だって。
「焦っちゃっただけ。何にもないよ」
「……なにが?」
「さっき、兄ちゃん呼びに行ったら、アーカイブの人とキスしてるの見ちゃって。あ、みんなには内緒だよ、でもビックリしちゃって、それで外まで来ちゃった」
いつもの仲良さを考えたら、それもあり得るって思う。
それは本当だろうけど。
だけど、恵のこの態度の原因はそんな事じゃないんじゃないかって思いが拭えない。
「本当に、それだけ?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
恵の視線が彷徨って。もうこの会話を終えたいのがひしひしと伝わって来る。しつこくしたくないし、困らせたくない。
なのに、そうやって余裕でいられない自分が顔を出してしまう。
「恵……」
「レンの友達。見たよ、来てたね。先輩達」
俺がそれ以上何かを言うのを遮るように、恵が話題を変えた。
「うん。来てくれた」
「レンに友達がいて、よかったよ」
「何それ、まだ疑ってたの?」
きっと心配してくれてたんだろうって、思わず笑ってしまう。
「違うけど。レンの友達が俺だけじゃなくてよかった、」
「俺は、恵がいないと」
そうやって、少しずつ恵が俺と距離を取ろうとしてるんじゃないかって、ふと頭に浮かんだ。俺に他にも友達がいれば、恵にとっては負担が軽くなるんだろうか。
そんな事が頭に浮かんで、急に胸が締め付けられる。
恵の手首を握る。
「友達たちが、恵のこと探してて」
「え?」
「俺がいつも一緒にいるから、恵の事紹介しろって煩くて……でも嫌だから、はやく帰ってって言った」
「え? なんで?」
恵は不思議そうに俺を見る。
「俺は恵のこと誰にも見せたくないし、律なんて、部活の後輩に聞いて回って、恵が可愛いとかかっこいいとか聞いたって言ってて。余計に危険でしょ。危ないから絶対無理って言ったし」
本当はそんな風に言うつもりじゃなかった。だけど、恵のことを自分だけで囲っていたいのは事実で、思わず口に出してしまった。
こうなったら、スラスラと口から本音が出てしまう。
「……え?」
恵は目を丸くしている。
「新学期が始まったらクラスに見に行くとか言ってたけど、俺が阻止するから。もし行っても無視していいからね」
「え? なんで、先輩と俺が会っちゃだめなの? いじめられる?」
そうか、危険っていうのはそういう事なのかもしれない。
「いや、そういう事じゃないよ。大丈夫、そういう怖い人達じゃないから。むしろ、恵のこと気に入っちゃいそうだから」
「……だから?」
「恵。俺は恵を誰にも見せたくないし、触れさせたくないし、だからあんな危険な人達は近づけたくないの」
少し悪く言い過ぎだと思う。実際には、危険なのは俺にとってだ。きっとみんな、恵に優しくするだろう。
だけど、俺の恋心やそういう事には絶対に触れて欲しくない。
「どういう……」
恵は首を傾げて上目遣いに俺を見る。こんなにも可愛いのに。どうして自分の魅力を知らないんだろう。知らなさすぎて危険だ。
「そういう所、全部」
頭がパッと真っ白になって。
気がついたら思いのままに恵の腕を引っ張って抱きしめていた。
きっと恵にとって1番危険なのは俺だ。
「レン?」
「恵……充電させて」
「ん……でも、俺汗だく」
「ごめん、俺もめちゃくちゃ汗かいた」
そうだ、ステージで汗だくになって、今だって風もなくて暑くてポロシャツの中は汗でじっとりしている。
なのに、恵にしがみつくように力を込めて抱きしめる。
「恵、俺の事ひとりにしないでよ」
ため息を吐くと同時に、心の声が言葉になって漏れた。
「え……」
恵の戸惑ったような声。
困らせたくないって、思っていたはずなのに。
「レン、ダメだよ」
「ん?」
「もう、離れて」
「もうちょっと」
年上なのに、大人気が無いって分かる。恵にとって迷惑だって感じるのに。俺は優しい恵が強く出られないのをいい事に、一層力を込めて抱きしめる。
これで最後にするから。
奏真はああ言ってくれたけど。
恵の気持ちは明らかだ。俺から離れるつもりでいるんだろう。
「レン、」
いよいよ、恵に胸を押し返されて、離された。
「恵」
恵が何を言いたいのかなんて、分かり切っている。そこまで言わせる必要も無い。
そう思うのに。恵の瞳をじっと見つめる。
いっその事、ズタズタに傷つけてくれれば、諦められるかもしれない。
だけど、きっと恵はそんな冷酷にはなれないんだろう。
「レン……」
「恵」
恵の瞳には嫌悪感は無い。でもそれは、俺の独りよがりの願望なのかもしれない。
風ひとつ吹いていなくて、蒸し暑い。恵の首を汗が伝うのが見える。
「汗……」
勝手に手が動いて。その汗を手の甲で拭った。その瞬間、恵がビクッと体を揺らした。
「レン……そういうの、やめて」
俺の手を掴んで離すと、強い眼差しで睨みつける。
俺の心が、透けてしまったと思った。
恵が嫌がらないのをいい事に、今まで自分勝手に恵に触れて来た。だけどそれを許してくれていたのは、友情だと思っていたからに過ぎない。
本当に恵を失ってしまうんだ。
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