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本人たちはひそひそ声のつもりだろうけれど、興奮しているのかちょっと耳をすませれば内容が聞こえてしまう声量だ。
聞いてはいけないと思いつつ、ついつい耳をそばだてる。
「で、辞めるっていつ頃?」
(え?!)
「一応、今年一杯ってことらしいよ。ショックー。私、憧れてたのに」
「そういう女子、多いんじゃない? 独身の中じゃ、一番の有望株だもの。会社にとっても損失よね。ヘッドハンティングでもされた?」
「事情は聞いていないけど、部長たちはあっさりしたものよ。もうちょっと引き留めてもいいのにさ」
「私なら全力で引き留めるわよ」
「私だって」
彼女たちも落ち着いたのかその後の声は小さくなって、すぐに資料室を出て行ってしまった。
残された私は、ファイルを抱えたままぐらぐらする頭で先ほどの話を反芻する。
課長が、会社を辞める?
人事部の話だし、部長たちも知っているって、もうそれ確定事項だよね。でもそんな話聞いてない。さっきだって普通に話してて……
どういうこと?
☆
朝聞いた話が衝撃的で、一日中頭から離れなかった。
上の空で終業まで仕事をこなして会社を出る。ぼんやりと今朝の話を考えながら、駅に向かって慣れた道を歩き出した。留美は今日は、歯医者に行くと言って先に帰っていった。
課長、本当に会社やめちゃうのかな。ちらちらと課長を伺っていたけど、今日もてきぱきと業務をこなしている姿はいつもと何も変わりなかった。もちろん、引継ぎなんて話もでなかったし。
私が総務に移ってからは、課長の下で働いてきた。失敗もしたけど、課長は厳しく、でもきちんと仕事を教えてくれた。今の私があるのは、課長のおかげだ。
まだまだ教わりたいことはたくさんあるのに。
それに……ちょっと、タカヤ、に似ているんだよね。
私は、そ、っとカバンの中に忍ばせたパスケースを取り出す。外からは見えないけれど、その中にはタカヤのプロマイドが入っている。
茜にラグバのライブを見せられてから、あっという間に私もはまってしまった。
私の推しは、5人の中でも年上らしいタカヤ。おだやかにみんなを見守るお兄ちゃんタイプ。
課長は、そのタカヤに雰囲気が似ていた。
アイドルにはまっているだなんて、子供っぽいって言われそうで会社の人には言えない。でも、私の密かな心の支えとして、いつでもこれを制服のポケットに入れている。
私は、そのパスケースをまたバックに戻すと、顔をあげた。
うん。まだはっきりと聞いたわけじゃないもの。勝手に想像して落ち込んじゃうのはやめよう。課長から話があるまでは、私もいつもと同じ。それでいいや。
そう決めたら、ちょっとだけ気分が浮上した。帰ったら、ラグバのライブ見ようっと。
顔をあげて改札に入ろうとした私の耳に、陽気な男の声が飛び込んでくる。
「な、ちょっと付き合えって。絶対楽しいからさ」
「少しカラオケでも行くだけじゃん」
「と、通してください……」
声の方を見れば、男とは対照的に消え入りそうな声で答えているのは、高校生くらいの制服の女の子だ。男二人に囲まれて、逃げるに逃げられないらしい。
そばを通っていく人たちは、ちらと視線を送る人も多いけれど誰も彼らに声をかけたりしない。
私も、反射的に目をそらしてしまった。関わったら、何をされるかわからない。
そう思い通り過ぎかけて、視界に、震えるその子の足が目に入った。
相手は男二人。怖い。
でも。
あの子はきっと、もっと怖い思いをしている。
私は立ち止まって、バッグの中に入っているパスケースを上から押さえた。
(勇気をちょうだい)
覚悟を決めて振り返ると、私は大きく息を吸った。
「と、通してあげてください」
「あ?」
声をかけると、男たちは私に視線を向けた。
「なんだよ、知りあい?」
「違いますけど……嫌がっているんですからやめてください」
その男たちは、二人でこちらに向いて私のことをおもしろそうに眺めてくる。
「なんだよ、あんたもまざりたいのか?」
「違います」
と、すきをみてその女子高生はいきなり走り出した。
「あっ」
無理やり私の横を通ろうとしたせいで、女子高生は私に体当たりする格好になってしまった。その衝撃で、私のバッグが思い切り飛ばされてしまう。
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