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わたしは拳を震わせていた。
下唇を噛み締め過ぎて、口の中に血の味が滲んでいく。
眉が自然と吊り上がる。
そんなわたしの視線の先にいたのは、一人の女性だった。
わたしを捨てた、一人の女性が、テレビの向こう側にいた。
わたしの存在は、お母さんの中では消されている。
そう聞かされたのが何歳のころだったかは覚えていない。だけど、そう言われたことだけははっきりと覚えている。
お父さんからそう聞かされた時、わたしは涙を流した。悔しくて、悔しくて、悔しくて仕方がなかった。
でも、死にたいとかそういうことは考えなかった。お父さんが、わたしを溺愛してくれていたから。お母さんがいない寂しさなんて感じさせない程に愛してくれていたから。
最も、甘やかしてくれていたわけではない。叱る時はきちんと叱ってくれる存在だ。たまに本気で喧嘩もするし。
お母さんがわたしを産んだのは二十四歳の時だったそうだ。わたしと一緒にいたのは、わずか一年だけ。そして、今に至るまで、一度も会ったことはない。
わたしは来年度、小学生になる。四年もの間、会っていないことになる。それはお父さんも似たようなものだそうだ。
テレビの向こう側にいるお母さんの表情が苦悶に歪んだ。上部に表示されているバーが一気に相手色に染まっていく。
AIがお母さんの形勢不利を知らせていた。それも現状、お母さんの敗北率は九十パーセントにまで達している。
お母さんは将棋の棋士をやっている。
史上初。そして。将棋界で唯一の女性のプロ棋士だ。
女性のプロ棋士は、将棋の歴史において、一度として存在していなかった。
たしかに女流棋士というのはあるが、それは女性だけのプロ制度の話だ。本来のプロ棋士に、男女の区分はない。
それにも関わらず、女性のプロ棋士は存在していない。女性のプロ棋士を拒絶しているわけではないのに、だ。
何人もプロへの扉を叩いた。惜しい人もいた。だけど、扉は固く閉ざされたままだった。
それを開け放ったのが、お母さんだった。
わたしを出産した翌年に復帰、もがき苦しみながらも、三段リーグと呼ばれる最後の難関を突破した。
この三段リーグを突破できるとプロ棋士になれるのだが、二十六歳の誕生日が来ると挑戦権を失い、基本的にはプロ棋士への道が絶たれてしまう。
お母さんにとって、復帰したその一年がラストイヤーだった。
そこでお母さんは、三段リーグを突破。歴史上初の女性のプロ棋士となった。
その時の日本中のお祭り騒ぎはすごかったそうだ。連日ニュースが放映され、お母さんの顔を日本中誰でも知っているような状態だった。わたしはもちろん知らないけれど。
そこからお母さんは、プロの世界で戦い続ける。でも、結果は伴ってこなかった。
鳴かず飛ばずの日々だった。やっぱり女性にプロ棋士は荷が重い、なんて声も多かった。
でも、お母さんは戦い続けた。諦めずに戦っていたある時から突然、勝率がぐんと伸びた。そして、その果てにたどり着いたのが「竜王戦」での竜王への挑戦権だった。
竜王は将棋の世界において、最上位の称号だ。ものすごく簡単に言うと、一番将棋で強い人、ということだ。
今、わたしの目の前にあるテレビで行われている試合が、まさにその竜王戦の最終戦だった。
竜王戦は七戦行われ、四勝先勝した者が竜王となる。
お母さんは三連敗した後、息を吹き返し、三連勝。そして、泣いても笑っても最後の七戦目に突入していた。
相手はタイトル獲得総数九十九の現役にも関わらず、将棋の世界史上最強とも名高い、生ける伝説のような名棋士だった。
この一線が持つ意味は非常に大きい。
お母さんが勝てば、歴史上初めて、女性のプロ棋士のタイトル獲得となる。
一方、相手が勝てば、歴史上初めて、タイトル獲得総数が百となる。
どちらが勝っても、歴史に名を刻むような一線だった。
だから、テレビで異例の生中継が行われていた。
持ち時間が互いに五時間もあり、長丁場だ。それをノーカットで流しているのだから、その注目の高さがうかがえる。
試合は終盤に突入していた。お母さんは秒読みが始まっていた。それに対して、相手はまだ一時間も持ち時間を残している。
秒読みとは、簡単に言うとお母さんは一分以内に将棋の駒を動かさないといけない状況にある。相手はやろうと思えば一時間かけて、将棋の駒を動かすことができる状況だ。
どちらが有利なのかは、考えるまでもない。
「……お母さんッ!」
お母さんは全身で発汗している、額には大粒の汗が浮かび、それがぼたぼたと落ちている。
対して相手は、険しい表情はあるものの、まだまだ余裕がありそうだ。
――パチン
相手が一手を差す。お母さんの手番だ。
「……三十秒」
あっと言う間に時間は溶け、残り三十秒になる。
将棋は、一手を差せばいいわけじゃない。その先の手も読み、さらにその先、さらにさらにその先も読んで、手を差さなければいけない。
お母さんの脳みそはフル回転している。だから汗が止まらなくなる。オーバーヒート状態なのは、見ていて明らかだった。
それでも、盤上に覆いかぶさり、懸命に手を読み、手を差そうとしている!
「……十秒」
まだ、お母さんは手を差さない。ギリギリまで考えたいからだ。
「……三、二」
お母さんが駒を持ち上げ……え? 笑った?
わたしの見間違えでなければ、お母さんは今、たしかに笑っていた。
追い込まれ過ぎて、諦めの笑み?
それは違うということに、すぐに気が付いた。
――パチンッ
その一手が終わりの始まりだったから。
「……何ですか、これ!」
テレビで盤面を解説していた棋士が、突然、焦り始めた。
「この一手……嘘だろ!?」
その一手は、誰もが考え付かなかった手だ。いや、正しく言うのなら、その一手に勝ち筋がなかったから、誰も考えなかった手だ。
悪手。
テレビ上部にある、形勢を伝えるバーも、九十九パーセント、相手の勝利を伝えていた。
相手がよほどの悪手でも打たなければ、相手の勝ちはほぼ確定だ。
もう終わった。
誰もがそう思っただろう。盤面を挟む相手ですら、そう思ったかもしれない。
だけど、わたしと隣で固唾を呑んで見るお父さんはそう思っていなかった。
お母さんの目は死んでいない。見開かれ、瞬きすらしない状態で、盤面を睨み続けている。わずかに口を動かしながら。
まだ終わってないッ!
相手は最善手を打った。AIが推奨する最善の手でもあり、解説していたプロ棋士も同じことを口にしていた。
――パチンッ!
お母さんは即座に打ち返した。
誰もが面喰った。相手も、解説の棋士も、そしてAIも。
その一手もまた誰もが予想していなかった一手だった。
相手が前かがみになり、盤面を確認する。しかし、形勢は変わっていない。AIの評価も相手が圧倒的な優勢のままだ。
相手はしばらく考えた後で、自分が優勢と判断し、また最善手を打った。
――パチン!
お母さんはまた、ノータイムで差した。その一手もまた、誰もが予想しない手だった。しかし、相手の優勢は変わらない。相手がゆっくりと一手を打つ。それもまた最善手。
次の瞬間のことだった。
――パチンッッッ!
お母さんは振り上げた駒を、振り下ろして一手を差した。
その一手は、世界を一変させた。
AIの評価値が逆転した。お母さんの勝率……九十九パーセント!
プロ棋士が解説できなくなった。あり得ない一手。けれどその一手は、奇跡の一手だった。
相手が盤上に覆いかぶさる。大粒の汗を零し始めた。体が赤くなっていく。脳みそがフル回転しているのがわかる。
目が盤上を縦横無尽に動く。何度も何度も駒を上げ下ろしする。完全に冷静さを失っているようだった。
気が付けば、持ち時間は溶けていた。秒読みが始まる。
「……十、九、八」
相手が、読み切れないまま、次の手を打った。
それは完全な悪手だった。打った瞬間、相手の棋士がうめき声を漏らした程の、明らかな失着だった。
その一手をお母さんは、逃すわけがなかった。即座に駒を動かした。
その一手が、十時間を超える激闘の終わりとなった。
「……参りました」
そして、お母さんは女性初のプロ棋士のタイトルホルダーとなった。
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