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――この勝利、誰に一番伝えたいですか?
そう記者の人から聞かれた時、わたしは即答した。
「家族です」
記者はわたしの答えを、わたしの父や母あるいは兄を思い浮かべたのだろう。
だからわたしは続けた。
「わたしの夫と娘に、伝えたいです」
記者は呆気に取られていた。無理もない。わたしは結婚した事実も、出産した事実も公表していない。
妊娠していた時も三段リーグには参戦していたし、妊娠がわかってから出産するまでとその後の一年の休みは体調不良と発表されている。
だから、今の発言に、誰もついてくることができなかった。
「わたしには夫と来年小学生になる娘がいます」
記者がわたしの発言を取ろうと、マイクや録音機を近づけてくる。
「でも、わたしは夫と娘にもう数年会っていません。娘に至っては、一歳の誕生日以降、全く会っていません。わたしの中でその存在を消していました。そうしなければ、将棋の世界では戦えないと思っていたからです」
記者から動揺の声が上がった。それを無視して、わたしはわたしの物語を言葉にしていく。
「わたしにとっては将棋は自分の人生そのものでした。だから、プロ棋士になりたいと思うのは必然でした。たしかに歴史上、女性のプロ棋士はいません。でも、そんなの関係ありません。わたしは、将棋で生きていくんだ、と心に決めていました。けれど、夫と出会い、妊娠して、大切な子が生まれ、その考えに変化が訪れました」
ここは言葉にしないけれど、三段リーグで行き詰っているタイミングだった。三段リーグまでは紆余曲折はあったものの、精神的に追い詰められることはなかった。
でも、三段リーグは違った。プロ棋士になるための最後の砦。そこには四十人ほどの猛者たちがいる。そこでプロ棋士になれるのは、半年に二名、一年で四名しかいない。
わたしは三段リーグで苦戦を強いられた。当たり前だ。全員がプロ棋士になるために歯を食いしばり、血反吐を吐いて将棋を研究し、全身全霊で戦いに挑んでいるのだから。
人生を、命を賭した戦いだった。
わたしは精神的に追い込まれた。体重は落ち、やせ、常にフラフラの状態。それなのに将棋のことが頭から離れず、脳内で勝手に対局が、研究が、反省会が始まる。脳が全く休まらない状態になってしまった。
体を壊すところまでいかなかったのは、夫のおかげだ。当時は彼氏だったが、彼はわたしを献身的にサポートしてくれた。多分、彼がいなければ、わたしはとっくに体を壊し、将棋を辞めていたに違いない。
そんな彼にわたしは甘えた。彼もそれを受け入れ、わたしたちは結婚した。
そして、わたしは妊娠した。それは喜ばしいことで、わたしは心底喜んだ。その感情に偽りはない。
……偽りはない。だけど、心残りがあった。言うまでもなく、将棋だ。
わたしは妊娠中、悩み続けた。
この子を生み、夫と共に生きていく未来を歩むべきか、それとも過酷な将棋の世界に戻るのかを。
「正直、わたしは夫と娘と生きていく未来を選択しようとしていました。家族の中で幸せに生きていこうと。でも、諦められなかったんです。三段リーグまで来て、あと一歩でプロ棋士になれるところまで着て、将棋を諦めることができませんでした」
だから夫と話し合いを重ね、あと一年だけ、三段リーグに挑戦することに決めた。
そして、わたしは夫と娘の存在を、自分の中から消した。
そうしなければ、わたしはすぐにでもその居心地のいい場所に戻ろうと甘えてしまうから。それは弱さに直結してしまうから。
わたしは自分の全てを賭して、将棋に向き合った。今まで以上に、いや、そんなものとは比較にならない程、将棋に没頭した。
「そして、わたしは三段リーグを突破した史上初の女性となりました。プロ棋士になった歴史上初の女性になりました。本当は、そこで引退するつもりだったんです」
夫と娘と一緒にいたかったからそれを夫に伝えた。しかし、夫がそれに待ったをかけた。
「満足した? それならいいけど、そうじゃないなら、続けて」
「でも、わたしは三段リーグを突破しただけじゃ、満足できていなかったんです。欲しかった。プロ棋士のタイトルが」
わたしは、悩んだ。悩みに悩んだ。そして答えを出した。
将棋を続ける、と。プロの世界で戦う、と。
そこから、わたしはまた夫と娘を忘れて、全身全霊で将棋に取り組んだ。
しかし、それで勝てる程、将棋の世界は甘くない。
わたしはプロ棋士としてのデビュー後、黒星が続いた。最初は女性初の将棋のプロ棋士としてもてはやされたが、いつの間にか誰も取材に来なくなっていた。
それでも、わたしは将棋に没頭した。寝る間も惜しんで、頭を将棋漬けにした。
結果を出すことに、全神経を注いだ。
「だけど、ダメでした。試合でたまに勝つことはできました。しかし、勝ち続けることができず、タイトルの座を賭けた戦いに座ることすらできませんでした。正直、引退することも考えなかったわけではありません」
心はゆっくりと、でも確実に摩耗していた。
だから、ふと思い出してしまった。家族のことを。
だから、すがりたくなってしまった。戻りたくなってしまった。帰りたくなってしまった。
わたしは気が付いた時には荷物をまとめていた。将棋の世界から離れ、家族の元に帰るために。
でも、そこで気が付いた。ある盤面のままになっている将棋盤だけ、片付けていなかったことに。恐らく、将棋盤を無意識の内に無視していたのだろう。自分の心がすり減り過ぎていたことを痛感させられた。
もう、終わりだな。
そう思ったことを、はっきりと覚えている。
わたしは片付けるために、将棋盤に近づいた。
「そんな時、幻影を見たんです。我が子を抱きかかえ、将棋盤を前にするわたしを。そのわたしは、我が子に自分の娘に将棋の楽しさを伝えていました」
まだ一歳にも満たない子だ。わたしの言葉なんて届くはずもない。けれど、娘は駒台にある駒を一つだけつかみ、盤上に落とした。
それはその盤面では見たことのない手だった。
でも、その一手を読むと、逆転への道筋が開かれる、奇跡の一手だった。
わたしはそれを見て、この子は天才だ、なんて親ばかを発揮した。
そのことを思い出したのだ。
わたしは、ゆっくりと将棋盤の前に腰を下ろした。
そして、一手、手を進めた。
「それで奮起しました。まだ、終われないって」
わたしは、家族の存在を消すことで、将棋に没頭することで、強くなれると信じていた。
それが間違いだとは思わない。だけど、もっと強くなれる方法をわたしは見つけた。
「わたしは家族に、何より娘に、わたしの姿を見せたいって思ったんです。将棋と戯れる楽しそうなわたしの姿を!」
それはわたしにとっての転換点となった。
そこからのわたしは破竹の勢いだった。負けなかったわけじゃない。でも、勝率は目に見えて向上していった。タイトルへの挑戦権を取る直前までいくことも、何度かある程に。
楽しかった。将棋が、心の底から楽しかった!
「だから、竜王戦も戦えたと思っています。楽しいという感情がなければ、家族を消し去ったままのわたしだったら、三連敗を喫した時点で終わっていたと思います。でも、わたしには家族がいました。家族の存在が力になったんです!」
将棋を楽しんでいたわたしは違った。
ここから逆転で竜王を取ったら、ドラマチックじゃない!
そして、こうも思っていた。
ここから逆転で竜王を取ったら、娘にますます自慢できそう!
ストレートで勝つのもかっこいい。だけど、ボロボロになって、勝目なんてなさそうな場面からの大逆転はもっとかっこいいとわたしは思っていた。
だから、わたしは諦めることなく、全力を出し切ることができた。そして、その全力は、結果にも結び付いた。
でも、七戦目。最後の対局は、正直、諦めかけた。相手の読みがわたしの読みをはるかに上回っていたから。
今までも本気だったのは盤を挟んでいればわかる。
だけど、最後の最後の局。相手も本気を超えていた。もしかしたら、対面にいたわたしも見えていなかったんじゃないだろうか。
それほどまでに将棋だけの世界に入り込んでいた。
さすがに負けそうだ、と心が折れかけた。
でも、わたしは諦めることはなかった。一縷の望みが残されていたから。
手を進めながら、わたしはその望みに賭けていた。
全てを諦めて家族の元に帰ろうとしていた日に、盤上にあった盤面の再現の可能性に。
とにかく慎重に手を進めた。時間をいくら溶かしても構わなかった。その盤面にさえたどり着ければ、わたしは勝てると確信していたから。
そして、わたしはこの手で、その盤面を作り出すことに成功した。
ありがとう。
娘への感謝の言葉を抱きながら、わたしは打った。誰も見たことのない、娘が生み出した一手を。
わたしは家族の存在を消すことで、将棋の世界に没頭した。だけど、最後の最後、わたしの手に勝利をもたらしたのは、家族の存在だった。
だから、わたしは決心していた。
これからは家族のために、生きようって。
引退しようって。
だって、竜王を取ったんだから!
タイトル序列1位のタイトルを取ったのだから!
一瞬かもしれない。
だけど、将棋の世界で最強の称号を得たのだから!
最後に記者の人が聞いてきた。
「プロ棋士になって、竜王を取って、満足しましたか?」
わたしは破顔した。
「これで満足しないわけないじゃないですか!」
~FIN~
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