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side 花井
結婚と言う二文字に嫌悪を抱いていたのは、母の男癖の悪さと父の酒癖の悪さと暴力だった。
中学を卒業したばかりの私は、早く家を出たくてあらゆるアルバイトをした。
2年間、せっせとタンスに貯めた私の貯金はある日消えた。
両親を問い詰めると、母が年下の男と行くホテル代、父のお酒に消えていたのがわかった。
こんな家にいたくない。
ふざけるな。
怒りに身を任せた私は、着の身着のまま家を飛び出した。
財布にある小銭で、どうやってホテルに泊まれるかわからなかった。
18歳まで、後一週間。
どうにか七日間繋げばあの場所で働ける。
何も持たぬ私は、この身を売ればすむ事だ。
繁華街を見つめながら立っていた私に声をかけてきたのは、栄野田十郎だった。
「君は、行く所がないのか?」
「会長、こんな汚い子供、放っておきましょう。どんな病気を持っているかわかりません」
「立花君、そんな言い方はしてはいけない。私達、栄野田グループはこの街の皆様のお陰で成り立っているのだ」
「は、はい。すみません」
「立花君、そこの靴屋で彼女に履き物を買ってきてあげなさい。足のサイズは?」
「23です」
「わかった。23センチの履き物を今すぐ買ってきなさい」
「は、はい。わかりました」
栄野田十郎は、お嬢様の曾祖父にあたる人物だった。
自分の力で、会社を築き上げ大きくした彼は街の人からも大変慕われていた。
栄野田十郎は、私の話を黙って最後まで聞いてくれた。
そして、履き物が届くとすぐに栄野田のお屋敷の家政婦として働かせてくれたのだ。
私は、栄野田十郎の優しさに報いたいと必死で働いた。
そして、佳代子様に出会ったのだ。
君千嘉様の奥様なのはわかっていた。
それでも、佳代子様にひかれてしまったのだ。
人を好きになど一度もなった事のなかった私にとって、佳代子様との出会いは雷に打たれたようだった。
しかし、佳代子様と私は対等ではない。
それに、佳代子様には君千嘉様がおられるのだ。
私は、初めて芽生えた自分の気持ちに蓋をして職務をまっとうし続けた。
そんなある日の事……。
「佳代子様、バスタオルはこちらに置いておきますね」
「花井ね。悪いけれど、背中を流してくれない?お腹が大きくなってきてうまく洗えないのよ」
「はい、わかりました。失礼します」
臨月を迎えた佳代子様が、初めて私に背中を流して欲しいと頼んできたのだ。
普段は、別の方がやっているのに……。
私は、口から心臓が飛び出そうになるほどドキドキしながら佳代子様の背中を流した。
「ありがとう。助かるわ」
「いえ」
「誰よりも、気持ちがよかったわ。これからは、花井。あなたに頼んでもいいかしら?」
「か、かしこまりました」
それから、佳代子様の背中を何度も流した。
さらさらした佳代子様の肌に触れる度、頭の中が真っ白になった。
しかし、女同士だから信頼してくれている佳代子様を裏切る事などしてはならない事だ。
私は、家政婦としての職務をまっとうし続ける事に全エネルギーを注ぐ事にしたのだ。
それなのに……。
・
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「君千嘉様。私の身分でこんな事を言うのはおこがましいとわかっています。ですが言わせていただきます。佳代子様を苦しめる事をしてはいけないと思います。どうして、浮気をなさるのですか?」
「花井。お前のような身分の分際で私にそんな事を言うのか身の程をわきまえろ!それとも花井、お前も私に抱いて欲しいのか?」
「そ、そんな事は考えた事はありません」
「考えた事はあるだろう。お前は、ここに来てどれだけ経つ?私が結婚したのが悲しかったのか?普段は、若い子が好みだが……。たまには、年を食ったものでも味見するかな」
「出過ぎた真似をしてすみませんでした。失礼いたします」
「待て。お前が私に抱かれると言うなら佳代子を苦しめる事はやめてもいい。そんなにビクビクするな。初めてでもあるまいし」
こんな歳でありながら、初めてだとは言えなかった。
私が、我慢をして抱かれたなら……。
佳代子様が……。
「花井。少しいいか?」
「だ、旦那様。はい」
「花井。後で、私の部屋にコーヒーを頼む」
「君千嘉様、かしこまりました」
私は、旦那様に呼ばれリビングへと向かう。
旦那様は、ソファーに腰かけて待っていた。
「すみません。どうなさいましたか?」
「君千嘉に何か言われたか?」
「いえ。そんな事はありません」
「花井が何を考えているのかは知らない。だが、私は花井を妹のように思っている。だからこそ、助言させてもらう」
旦那様は、ソファーから立ち上がると私の元にやってきた。
私を見つめる眼差しは、栄野田十郎にとてもよく似ている。
「花井が何かをしたとしても、壊れた歯車は元には戻らない。どんな事をしても、それは変わらない」
「旦那様……それはご自身の事を言っておられるのですか?」
「どうだろうか?ただ、花井には夕貴に恥じない生き方をしてもらいたい。あの子にとって、花井は大切な存在だからだ」
「お嬢様にとってですか……」
旦那様の言葉が痛いほど、この胸に突き刺さった。
君千嘉様に抱かれた私は、あのお嬢様の澄んだ眼差しを真っ直ぐ受け止められるだろうか?
「ですが、コーヒーを……」
「それは、別の誰かに頼めるだろう。生前、父がよく言っていたよ。花井には、何故か全て見せてしまう。弱い所も情けない所も……。私も同じだ」
「旦那様……有難いお言葉を頂き嬉しく思います」
「例え愛する人を助ける為であっても、花井が自分の信念に背き。その身を汚してしまったとしたら……。私は、もう二度と花井に何も見せれないだろう」
「ど、どうしてですか?」
「その澄んだ真っ直ぐな瞳が濁ってしまうからだよ。だから、花井。今、考えている事を実行しないで欲しい。これは、私の勝手な願いだ」
「もしかして、旦那様は君千嘉様とのお話を聞かれていたのですか?」
「さて、何の事だろうか。君千嘉は、父が甘やかしたせいで女癖がとても悪い。花井に出来る事は、どんな事があっても佳代子さんを支える事じゃないのか?」
旦那様は、私の肩を叩き。
「愛してるなら、裏切るな」と私の耳元で旦那様が呟いた。
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私は、結局君千嘉様の誘いには乗らなかった。
お嬢様や佳代子様を裏切る事は出来なかったから……。
だけど、時々思う。
もしも、私があの誘いに乗っていたら佳代子様は今でも君千嘉様の隣にいたのではないか……。
栄野田の家を出なくてよかったのではないかと……。
コンコン……。
「体調は、どうだ?」
「旦那様」
「立たなくていい」
「何故ですか?」
「言っただろう。花井は、妹のようだと……。今日は、あの子の月命日だったからお墓に行った帰りだ」
「綺麗なお花ですね。お墓にお供えにならなかったのですか?」
「妻が嫌がるからね」
「奥様は、まだ亡くなった事を受け入れておられないですものね」
「ああ。だけど、最近変わったんだ」
「そうなのですか?」
旦那様は、スマートフォンで撮った写真を私に見せてくれる。
「可愛らしいお嬢さんですね」
「そうだろ!夕貴の好きな人の子供だ」
「好きな人?コウキ様では?」
「コウキ君は出て行ったよ。彼は、妻に必要な存在だったんだけどね。どうやら、浮気していたらしい」
「そうだったんですね」
「仕方ないよ。私達家族に溶け込む事は難しかっただろうからね。それでも、コウキ君はよく頑張ってくれた。次は、彼女が頑張ってくれてる」
旦那様が写真をスライドさせるとニコニコ笑ったお嬢様と女の人が映っている。
「お嬢様の好きな人って?」
「彼女だ」
「女性なのですね!旦那様は、お許しになったのですか?」
「許すも許さないもない。私は、夕貴が幸せでいてくれればそれでいい。いつだって、それだけを望んでいた。だけど、私は夕貴を守ってあげられなかった」
「旦那様だって一生懸命頑張ってきたじゃありませんか。私は、知っていますよ」
「花井……ありがとう。また、会いに来るよ!治療費は、気にするな。私が払うから……」
「ありがとうございます」
「余命などに負けずに生きてくれたらそれでいい。私にとって花井は……。それじゃあ、帰るよ」
「お気をつけて……」
旦那様は、いつも私を妹のようだと言ってくれた。
家族のように扱ってくれて嬉しかった。
このまま死にたくない。
佳代子様やお嬢様とたくさん過ごしたい。
・
・
・
日に日に体が痩せて弱くなるのを感じていた日に佳代子様が現れた。
ちょうど退院を明日に控えていた。
佳代子様の傍にいれるなら、それでいい。
最期の時間を佳代子様と共に過ごしたい。
どうか、神様。
明日も目が覚めますように……。
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