31. やっと気がついた

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31. やっと気がついた

 診療所に運ばれたアイリスは、帝国最高の医師の治療を受け、脈拍も正常に戻ったが、その後もずっと意識は戻らないままだった。  まだ安静にしていたほうがいいという医師の判断で、診療所の個室のベッドで寝かされている。  エヴァンは騎士からの報せを受けてすぐに駆けつけ、真っ白な顔をして眠るアイリスの姿を見て涙した。  それから片時もアイリスのそばを離れず、夜も自分が付き添うと言って診療所に残り、アイリスの看病を続けていた。 (……僕がアイリスのそばを離れたりしたから、こんなことになったんだ)  谷底に落ちた弓を見つけた瞬間、目の前が真っ暗になった。  アイリスがここから谷川に落ちたのだと悟り、恐怖と絶望に襲われた。最悪の事態しか考えられず、しかしそれを打ち消すのに必死だった。  アイリスは魔法が使えるから、きっと大丈夫だと。  だが、今アイリスは命こそ助かったものの、意識を失ったまま目を覚さない。頭を怪我したことが原因だろう。  おそらくではあるが、落下してすぐに頭を打ったために、魔法が使えなかったのだ。あるいは、溺死を防ぐような魔法しか掛けられなかった。  エヴァンがまるで精巧な人形のようなアイリスの頬をそっと撫でる。   (アイリス……守ってあげられなくてごめん……)    いつまでも目を開けないアイリスを見ていると、後悔ばかりが果てのない海の波のように押し寄せてくる。もしかしたらこのまま永遠に目を覚さないのではないかと怖くてたまらなくなる。  あのとき、ずっとそばにいればよかった。  そもそも狩猟祭になど参加しなければよかった。  イーサンは、エヴァンひとりのせいではないと言ってくれたが、やはりそれは正しくない。すべて自分の判断が誤っていたせいだ。  エヴァンがぎりぎりと拳を握りしめる。 (……アイリスをこんな目に遭わせた奴を絶対に許さない)  アイリスが故意に崖から突き落とされたのは明らかだった。  まだ犯人を捕らえられてはいないが、目星はついている。 (やはり警告などで済まさずに、すぐに殺していればよかった)  イーサンの婚約者であるセシリアが、妬みからアイリスを下劣な方法で害そうとしていたことは把握していた。  だから、セシリアが使っていた男に接触して警告した。  損得を考えられるまともな思考の持ち主なら、そこで止めるはずだと思った。  それなのに、セシリアは手を引くことなく、おそらくまたあの男を使って今回の凶行に及んだ。   (──絶対に許さない。必ずアイリスと同じ目に、いや、もっと悲惨な目に遭わせてやる)  エヴァンがアイリスの華奢な手を取り、祈りを込めて握りしめる。 「アイリス……お願いだから、僕をひとりにしないで──」  ある日アイリスが天使のように現れてから、自分の人生は変わった。彼女がエヴァンを認めて、褒めてくれたから、不安だらけだった人生に光が差した。目を閉ざして殻に引きこもるのをやめて、外に出てみようと思えた。 (……君がいなくなったら、もうこの世界に意味なんてない。そんな場所で無駄に生きていくくらいなら、僕は死ぬよ)  エヴァンがアイリスの手に口づける。  すると、その指がかすかに動いたように感じた。 「……アイリス?」  エヴァンが驚いてアイリスの顔を見ると、長い睫毛がわずかに動き、彼女の淡い紫色の瞳が半分その色を現した。 「ああ……! 意識が戻ったんだね……!」 「……うう……」  アイリスが身じろぎして、ゆっくりと顔を向ける。 「大丈夫? 僕だよ、分かる?」  あまり大声を出してはよくないと気づき、声を落として優しく語りかける。  アイリスはふたつほど荒く呼吸したあと、うっすらと開けた目を細め、口もとにかすかに弧を描いた。 「……あなたが助けてくれたのね」  アイリスがエヴァンの手を握り返す。 「いや、助けたのは僕じゃ──」 「あなたはいつも私を助けてくれる。……大好きよ。本当に大好き」  アイリスが愛おしそうにエヴァンを見つめる。 「え……?」  アイリスに好きだと言われ、見たことのないような眼差しを向けられて、エヴァンの頬がぱっと朱に染まる。  何と答えればいいのか、どうすればいいか分からない。  ただこの上ない幸せを噛みしめて、小さくうなずいて見せると、アイリスも心底幸せそうに頬を薄桃色に染めた。 「あなたと出会えてよかったわ。ずっとずっと愛してる──私のクリフ(・・・)」  アイリスはそう想いを告げて、満足そうに目を瞑り、やがて静かな寝息を立てて眠り始めた。  エヴァンがどこか安心したようなアイリスの寝顔を呆然とした表情で見つめる。  つい先ほどまで温かい幸せに満たされていた胸は、今は空虚で冷え切っている。  頭がぼうっとして上手く働かず、ただひとつ、アイリスに分かってほしいことだけが口からこぼれ出た。 「……アイリス? 僕は、クリフじゃないよ──」  いくら朦朧としていたとはいえ、そんな男とは間違えてほしくなかった。どうしてクリフなんかと……。  そう思った瞬間、やっと気がついた。  アイリスと出会った頃の彼女の言葉が耳に蘇る。  ──あなたの髪と瞳の色の組み合わせが好きなの。 (……ああそうか。あれは、クリフと同じ色の組み合わせだから好きという意味だったんだ)  クリフのことは、妙な意地でずっと聞いてこなかったから外見も知らなかったけれど、きっとそうだ。  同じ銀髪と紅い瞳だから、勘違いしたんだ。 (僕はなんて馬鹿だったんだろう……)  アイリスが好きな見た目で生まれてよかったと思っていたのに。  アイリスが優しくしてくれるのは、自分に心を開いているからだと思っていたのに。  そんなものは全部、都合のいい幻だった。  ただの浅ましい願望に過ぎなかった。  本当は、エヴァンがアイリスの「兄」に選ばれたのはクリフに似ているからで、いつも一緒にいてくれたのも同じ理由なのだろう。  アイリスは違うと言うかもしれないが、それ以外に彼女が自分のそばにいてくれた理由など考えられない。 (アイリスだけはちゃんと僕のことを見てくれていると思っていたのに……)  結局はクリフと同じ色彩しか見てくれていなかったのかもしれない。 「ふふっ…………あははは……っ」  乾いた笑いが止まらない。  なのに視界はどんどんぼやけていく。 「……ああ、でも……それでも愛してるんだ。昔からずっと……心から愛してる、アイリス──」  紅い瞳から溢れた涙が、エヴァンの頬を伝って落ちていった。
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