ハルさと『憧憬』

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ハルさと『憧憬』

「う~~ん……」 洗面所から聞こえてくる唸り声。一度や二度ではなく、時間にしてもう十分ほど続いているだろうか。朝食の後片付けをしていたハルは気になって、とうとう洗面所へ声の正体を暴きに行った。洗面所には、鏡に向かって唸り続ける恋人・智の姿。眉を八の字に、口をへの字に曲げ、鏡とにらめっこをしている。 「どないしたんな、うんうん唸ってんのこっちまで聞こえてんで」 「ここがどうしても……」 どうやら、髪型がいつものように決まらないらしい。頑固な寝癖がどうしてもおさまらず、その寝癖を隠そうとして妙なところに分け目を作ってしまい、ますますおかしなことになってしまっている。 「しゃあないな、俺がなんとかしたろ」 ハルがヘアワックスを少量手に取って、智の髪に触れようとする――が。 「……屈んでぇや」 「あっすみません」 身長差十六センチカップルの二人、ハルが智の頭部に触れようと思えば智が中腰にならないといけない。腰を落とし膝に手をついた智は、しばしハルにされるがままになっていた。ハルの手腕によって、智の髪はみるみる普段とは違った垢抜けヘアになったが、どうもハルはそれだけでは気が済まないようだ。 「ついでに眉もいじるで。ずっと気になっとってん」 「え?あ!ちょ」 返事を聞く前に、顔用電気シェーバーが智の自然なまま手つかずの眉を容赦なく剃り落としていく。 智は一言でいうと『おぼこい』=初々しくて幼い、あどけない、そんな印象を与える。それは垂れ気味でくりくりの大きな黒目がちの瞳にぷっくりとしたおちょぼ口の童顔であることや、世慣れしていない純粋な性格からなのであるが、そんな性質に不相応な程に身長が高く四肢が長くすらりとしていて、そのアンバランスさが絶妙な魅力だと、ハルの目には映る。しかし色気づく様子もなければおしゃれに関心もないようで、いつもどことなく野暮ったい風体なのである。 「それとこの地味×地味の色合いもなんとかならん?まだ若いのに」 アイボリーのワイシャツの上に着けていたベージュのネクタイをしゅるしゅると外し、クローゼットで見繕った別のネクタイをウィンザーノットに結んだ。 「よっしゃできた!完璧や」 ふんぞり返ってドヤ顔のハルを尻目に、鏡に映った別人のような自分を呆然と見つめる智。 「これで仕事行くんですか……?」 「いってらっしゃい♪」 得意げににんまりと笑って手を振るハルを訝しげに睨みながら、智は出かけていった。 *** 「ただいま戻りました」 「おっかえりぃ!どやった、周囲の反応は」 智の帰宅を待ってましたとばかりに出迎えたハルは、早速変身した智への周囲のリアクションを尋ねる。好評だったことを期待してはいるが、智の表情からしてその期待は外れなのかもしれない。 「なんなんですかね?ちょっと服装や髪型を変えたぐらいであんなに態度が変わるもんなんですかね?」 智は憤慨している様子だ。ハルがチョイスした光沢のあるボルドーのネクタイを解いて、荒々しく椅子の背もたれにかけた。ちなみにこのネクタイは結婚式に出席するために買ったもので、智が所持しているものの中では一番派手な部類に入る。 「その様子やと、好評やった……んかな?」 「好評も何も、行くところ行くところで絶賛の嵐ですよ!はあー疲れた!」 言っていることとやっていることが一致していないのだが、とハルは不思議に思いながら、不機嫌そうにソファへ腰を下ろす智を見ている。 「……で、なんでそないキレ散らかしてんの」 「だって!ちょっと髪型や眉やら変えただけで態度が変わるって、失礼じゃないですか?僕のこと表面しか見てないって言っているようなものでしょ?何が写真撮らせてだよ、何が合コンだよ……」 話しているうちに剣幕は落ち着いてゆき、最後はぶつぶつと独り言のようになっていったが、反対にハルの心がざわついてきた。 「ご、合コン……?」 「行くわけないですよ?!明日から髪型も戻しますし。眉は戻らないけど……」 「眉、剃らん方が良かった?勝手に剃って悪かったなあ」 「え、あ、いえ、」 「でも俺かて思うわ。今日のえーちゃん、めっちゃかっこええで」 ハルが智の耳元に口を寄せて囁けば、みるみる智の耳が真っ赤に染まり、困ったような表情に変わる。 「あ、ありがとう、ございます……。他の人から言われてたら嫌な気分になったのに、ハルさんにそう言われたら、嬉しいです」 困った表情のままわずかにはにかむ智を、ハルは小さく手招きして屈ませ、瞼にそっと口づけた。
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