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第八話 玉屋の文使い
「大丈夫か?」
頭を抱えた咲耶に信が声をかける。
「ああ……私は大丈夫だ」
大丈夫でないのはおまえだ、という言葉を咲耶は飲み込んだ。
(何からするべきか……)
咲耶は顔を上げる。
「弥吉は年はいくつなんだ?」
「だいたい十か十一くらいだと思うが、正確には弥吉もわからないらしい」
「そうか……」
咲耶は少し考えてから口を開いた。
「弥吉がまだ仕事をしていないのなら、玉屋の文使いをしてもらえないだろうか?」
「文使い?」
「ああ、遊女の手紙をお客に届ける仕事だ。江戸周辺の土地勘あって機転が利く子だとありがたいが……どうだ?」
「弥吉なら大丈夫だろう。もともと江戸のあたりを転々としていたらしいし、機転が利かなければ子どもひとりで生きてこられなかっただろう」
「そうだな……」
咲耶は目を伏せた。
文使いはただ手紙を届ける仕事ではない。
遊郭に通うお客の中には奥方がいる方も多い。
正面から堂々と「遊女からの手紙です」と届ければとんでもないことになる。
「道に迷った」「旦那様の古い知人で」などいろいろな理由をつけてお客本人に取り次いでもらう必要があるのだ。
その点、弥吉は年齢でいえば適任といえる。
子どもは警戒されにくいうえ、読み書きや剣術を指導してもらっている、といえば定期的に出入りすることを不審に思われない。
本当に教えてもらえれば、弥吉にとってもいい話しになる。
お客に口添えして、ときどきご飯も出してもらえるようにしようと咲耶は考えていた。
身寄りのない子どもの面倒をときどき見ているとなれば、奥方からの株も上がるはずだ。
一食分のご飯さえ惜しむ客は、大見世である玉屋にはいない。
これで弥吉の食糧問題は解決するだろう。
人体実験についてはこれ以上過激にならないように良庵に釘だけ刺しておこうと、咲耶は決めた。
耐性があるとはいえ、毒は毒である。
これまでの信の様子を見て、より強力な毒を今後持ってくる可能性も良庵なら十分にある。
長屋の賃料は払い続けてもらいたいので害のない程度は目をつむるが、これ以上は止めるべきだろう。
「今は弥吉もいるんだ。良庵の手伝いもほどほどにな」
咲耶は信にそれだけ口にした。
「ああ」
信はしっかりと頷いた。
「弥吉がいてくれてよかった」
咲耶は心からそう思ったことを口にした。
信には暮らしについての心配もあるが、それ以上にフラッと消えてしまいそうな危うさがあった。
弥吉がいてくれることで、信も少しだけ地に足をつけて生きてくれそうな気がしていた。
「ああ、弥吉はまだ幼いが俺よりよほど常識がある」
信の言葉を聞き、咲耶は思わず噴き出した。
「フフッ、そりゃそうだろう! ……あ、いや……すまない……」
普通に笑ってしまったことに咲耶は気まずそうに目を逸らした。
金の存在を知らず、江戸で草を食べるような自給自足生活をしながら、毒を飲んで感謝している人間に常識があるとは思えなかった。
弥吉の方が常識的なのは当たり前で、その当たり前のことを真顔で語る信に、咲耶は思わず笑ってしまった。
ゆっくりと信に視線をむけると、信は相変わらずの無表情だった。
(気分を害しただろうか……)
咲耶が何か言おうと口を開くと、先に信が言った。
「その方がいい」
「え?」
「おまえは、笑っていた方がいい」
咲耶は目を見開いた。
返す言葉が見つからず、口を開けたまま固まってしまう。
「それじゃあ、文使いのことは弥吉に伝えておく。いつ弥吉を連れてこればいい?」
「……あ、ああ、じゃあ、明日の昼に」
咲耶はなんとかそれだけ口にした。
「わかった。じゃあ、また明日に」
それだけ言うと、信は立ち上がり咲耶の部屋を出ていった。
部屋には呆然とした咲耶だけが残される。
「何なんだ……一体……」
咲耶は再び頭を抱えてうずくまった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜、弥吉は咲耶以上に混乱していた。
長屋の外まで弥吉の声が響く。
「明日? 吉原?? 咲耶太夫と会うって、あの玉屋の!? なんで、どうして信さんが知り合いなの!? 庶民が会えるような人じゃないだろう! 俺ですら知ってる吉原の高嶺の花だぞ! 名乗ってるやつがいるなら、それ詐欺だよ、絶対詐欺!! 騙されてるって! 何? ……助けてもらったって? そんなわけねぇだろ! ああ……変な草とか虫とか食べてるから、そんな幻覚見るんだよ……。明日は我が身か……。わかった、明日は俺がちゃんとついて行くから! とりあえず今日はもう葉っぱは食わずに寝てくれ! 明日に備えて今日は早く寝るぞ!」
長屋の夜はそうして更けていった。
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