第11章 火花と悲愴

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第11章 火花と悲愴

松岡祐二が心から慕い続けている小谷野亮子とは、中学校を卒業以来、一度も会えないまま3年が経過しようとしていた。 江戸川区の小岩で自活することになって、祐二はこれまでの自分の身に起きた事情と、変わらない亮子に対する気持ちを伝えるために、彼女へ手紙を送り居所を知らせた。 だが、亮子からの返事や連絡はなかった。 それでも彼は、数多くの女性との性愛を繰り返す中にあっても、心の奥底ではひたすら二人の相思相愛を信じていた。 早春の休日、祐二が住むアパートで、友人たちと鍋パーティを行うことになった。 参加者は夜間高校の友人3人と、中学校の級友だった山中進と石田ゆり子。 山中と石田 山中進と石田ゆり子は、転校前の船橋の高校でも偶然にも、中学校と同様にクラスメートになった。 特に山中進とは、中学時代から同じ陸上部に所属し短距離と長距離部の違いはあったものの、最も親しい友人だった。 亮子に見破られたラブレター事件も、実は山中に頼まれて、祐二が代筆して亮子に差し出したものだった。 亮子に代筆を見破られたことは、山中には言えず無事に彼女に手紙を手渡したことだけを伝えていた。 その後、その恋文の返書が全くなかったことから、少なくとも亮子が山中に対する気持ちがないことを、山中自身で理解してくれていたようだ。 おそらく、その後の祐二と亮子との深い仲についても、彼は知らないはずと思っている。 一方、石田ゆり子は、中学、高校ともバレーボール部に属するスポーツ女子。 明るく活発な性格。 父親は石油会社の重役で、母親はPTAの役員も務めるなど裕福で、先進的な家庭環境にあった。 さらに彼女は、容姿端麗のうえ成績上位の優等生タイプでもあった。 ただ祐二は、極貧の自分とは縁のない富裕層であり、どことなく大人びた喋り方をするゆり子には関心がなかった。 それにも増して、心から愛する亮子の存在があり、同級の異性とは特に仲良くする振る舞いを避けてきた。 そのため、中学時代を含め夜間高校への転校を余儀なくされるまで、ゆり子とは単なるクラスメートにすぎなかった。 ゆり子の愛の告白 そんなゆり子だったが、何故か、突然に祐二の前に現われた。 それは夜間高校へ転校してから、1年後の8月の休日の午後だった。 夏休みに入っていたゆり子は、何の前振れもなく祐二が住む小岩のアパートを訪ねてきた。 ノックもなく外から「松岡ク~ン、いるぅ・・松岡クン」と、うら若き女性の声が響いた。 暑いので、玄関のドアは半開きにして昼寝をしていた。 聞き覚えのある声だ。 タンクトップとジーンズ姿で玄関に出た。 そこにはショートカットの女子高校生が、小脇に紙袋を抱えて立っていた。 明るく笑っている。 白い半袖のブラウスに、紺色の細い棒帯が付いた夏の制服姿の石田ゆり子だった。 バレーボールの練習で、小麦色に焼けた顔と真っ白な歯が、健康的な美しさを引き立てている。 ドアを大きく開けると、彼女は足早に狭い玄関に入った。 突然の異性の訪問に驚き、どうして自分の居所を知ったのか、という疑問もすぐには脳裏に浮かばなかった。 「お久しぶりね。元気だった松岡クン!」 甲高い声であいさつをしてきた。 「まあ、何とかやっているよ」 臆して、消極的に答えた。 彼女は、目をキョロキョロさせて、狭い部屋の中を覗いている。 「あぁ、よかったわ。やっぱりなかったのね」 そう言うと、その場でおもむろに紙袋をあけて、陽に焼けた腕で中身を取り出しにかかった。 中から取り出したのは小さな籠状のゴミ箱だった。 「はい、どうぞ」と、言いながらそれを祐二に手渡した。 反射的に両手を出してそれを受け取った。 小さな声で「ありがとう」と言った。 すると、すぐに「あがってもいい?」と言われ、差し入れされたこともあって「どうぞ」と、言わざるを得なかった。 部屋にあがると彼女は足早に台所に向かい、数少ない食器類、やかん、鍋などをチエックしていた。 祐二は、ちゃぶ台の前に座り、彼女の様子を後ろから眺めていた。 痩せて背の高いゆり子は、スレンダーでバランスの良い体躯。 スカートから覗く、両脚は細くて長い。 バレーボールで鍛えた足の筋肉が、健康的な美しさを見せている。 それを支える腰は女子高生の若さに、紺地のプリーツスカートの上からでも、僅かな身の仕草に躍動して、微妙に艶めかしい動きを示す。 祐二の下半身に、欲情のいたずら風が吹いた。 しかし、とどまった。 愛する亮子の元級友でもあるゆり子と、関係を持つことの危険性を本能的に察知した。 若い男女が狭い部屋で過ごせば、肉体関係に陥る可能性が十分にある。 ましてやその日は真夏でもあり、小さな扇風機一つの狭い部屋では、暑苦しく理性を失い易い状態にある。 とっさに、祐二は彼女を外へと誘った。 喫茶店 「暑いからクーラーのある喫茶店に行こうよ」 「そうね、まるで蒸し風呂よね・・・」 と、言って素直に頷いてくれた。 祐二はほっとした。 すぐに二人で、小岩駅南口の駅前の喫茶店に向かった。 喫茶店は、すでに冷房がよく効いていた。 タンクトップから出ている両腕は、寒さで鳥肌が立ちそうだ。 それでも若い二人は、祐二がトマトジュース、ゆり子はコーヒーフロートを注文した。 とにかく二人だけで、じっくりと会話をするのは初めてのことだった。 「よく僕の居所分かったね。教えてなかったよね」 ストローでジュースを飲みながら、疑問をぶつけてみた。 「山中君に聞いたのよ」 確かに亮子の他には、山中進だけに居所を知らせていた。 ただゆり子は、祐二だけでなく山中ともそれほど親しくないはず。 それで意外な感じを持った。 「今日、急に松岡クンを訪ねたから、ビックリしたでしょ」 下から祐二の顔を覗きながら言った。 「そうだよ、驚いたよ。クラスのみんなは元気?」 「そうね、松岡クンが転校してから、野球部の田中君と山口君が退学したわ」 「そうなの。確かに二人とも以前から野球部を辞めたい、と言っていたから、野球推薦での入学だからね、野球部を辞めれば、退学になってしまうのかも、田中は期待されていたエースなのにね。・・・そうそう思い出したけれど、田中は、君のこと好きだったこと知っていた?あいつ僕にキューピット役を頼んできたのだよ。でも男らしく自分で告白したらと、断ったけど」 と、1年前の船橋の高校でのことを語った。 「ええ~そうだったの、私全然知らなかったわ」と、関心なさそうに言った。 「中学時代にもキューピット役を頼まれたことがあった。失敗したことがあって、それで断った。君が田中のそのことを知らないということは、あいつ、その後も君に告白をしなかったのか」と自分と同じく、中途で去っていった2人の同級生のことを思い出していた。 しばらく中学や高校の昔話をしていた。 だがその途中で突然、ゆり子は黙り込んだ。 祐二も何故なのか、と考えて寡黙になってしまった。 沈黙が続いた。 一呼吸おいてから、コーヒーフロートを一口すすると、ストローから唇を話したゆり子は、急に真顔になって話を切り出した。 「松岡クン、・・・・・・私、中学校の時から松岡クンのこと好きだったの。知らなかった?・・・バレーボールの部活の時に、陸上部の長距離の人達がロードランニングを終えて、グランドに戻ってくるでしょう。いつも松岡クンの姿を探したのよ。あなたが私達のコートの横を走り抜けるまで、見つめていたわ。もうトス練どころじゃなかった」 「え~っ・・・ビックリした。本当なの?知らなかったよ。だって声かけてくれなかった。話したこともあまりなかったよね。たぶん、二人だけで話し合ったのは今日が初めてだし、それにクラスでは、君は級長で男子の人気ナンバー・ワンだった。僕も君には憧れてはいたけど、背が高いし君よりも小さい僕にとって、とても結ばれる気がしない高嶺の花だった」と、応えた。 祐二は心の中で、実際にはこのゆり子の告白には困惑していた。 しかし、それに反して、告白を受け入れるような言葉が出てしまった。 「そうね。私のこと振り向いてもくれなかったわね。校内マラソン大会の時も、必死であなたを応援していたのよ。あなたが3位でグランドに戻ってきた時、バスケット部のハーフの一年生に抜かれそうだったわよね。覚えている?」 「ああ覚えているとも、あの時はやばかった。もう必死だった。まして声援は、圧倒的に青い目のハンサムボーイだったからね。抜かれてもいいという気持ちに一瞬なったよ」 「大声で叫んだのよ、身を乗り出してマ・ツ・オ・カ負けるな!ってね」 「僕にも声援があったのか、知らなかった。ハーフの彼への声援が大きくて聞こえなかった」 「そうよ。いつもあなたを慕って、追っていたのに。松岡クンは他の人たちと仲がよかった。私がもっと早く気持ちを打ち明ければよかった。バレーボールが好きで、部活に夢中だったから。あなたのことを好きだったけど、告白する暇も勇気もなかったの」 さらに続けて、 「それでも松岡クンとは、高校でもクラスが同じになって、飛び上がるほど嬉しかったわ。だけど松岡クンは休みがちで、私は相変わらず、朝練に始まり遅くまで部活漬けで、手紙も書くことも告白する機会も、なかなかなかったの。そうしているうちに、急に転校してしまうし、悲しくて毎日泣いていたのよ・・・」 そう言うと、悲痛な表情をみせて顔を伏せた。涙を流している。 祐二は腰を浮かし、ジーンズの後ろポケットからタオルハンカチを取り出し、彼女の手にそっと渡した。 「ありがとう・・・告白できて嬉しいの、松岡クン私のこと好き?・・・・」 あまり間を置かずに答えた。 「うれしいよ、こんな僕を好きだなんて夢のようだよ」と嘘ではないが、相手のことを気遣いすぎて、ついつい心底にはない言葉を吐いてしまった。 ただ、好きだとは言明しなかった。言えば嘘になり相手を騙すことになる。 これが、相手の気持ちを傷つけまいとするやさしすぎる祐二の悪い癖。 人からみれば、意志薄弱の軽薄な男と言われるだろう。それでも彼自身は、人に優しい心の持ち主だと良い方に考えていた。 こうしてその日以降、ゆり子は月に一度ほど彼を訪ねてくるようになった。 訪れる度に、裕福な家庭の彼女は、スリッパ、食器、タオルなどを買ってきては、差し入れてくれた。 祐二は、最愛の亮子の存在が心の中を支配しているにも拘わらず、ゆり子のやさしさにも応えようとする気持ちが自然に出てきてしまう。 いつもゆり子が彼に対して、母性的に振舞うことに感謝しその好意を受け入れた。 但し、彼女に対して、好きだという愛の言葉を吐くことと、肉体関係に発展することだけは、最後の砦として避けてきた。 この祐二の中途半端な態度が、後に不幸な結末を招くとはつゆ知らず。 最後の一線 ある休日。 ゆり子は新妻のように、数少ないレパートリーの中から、祐二が好物だと言っていたトマトシチューを甲斐甲斐しく作ってくれた。 外食の多い若い男にとって、この手作りの家庭料理は涙が出るほど嬉しい。 夕食後、二人は裸電球の下で壁を背にして、横に並んで足を投げ出していた。 ごく自然に、少女の上半身が彼に寄り添いもたれてきた。 祐二は、左腕を廻して少女の肩を抱いた。 左手に力を込めて、ゆり子を自分の胸元に呼び込んだ。 少女が顔をあげて、自ら唇を祐二の唇に触れてきた。 彼は口を半開きにして、少女の舌が入り込めるよう待った。 すぐに、少女の舌が彼の口の中をさ迷った。 少女の舌が吸い付き先を求めるように、彼の口の中で生々しく動いている感触が伝わってきた。 しばらく焦らすように、祐二の口は半開きのままで、舌も沈んだままだ。 そのとき、少女の熱いため息が漏れた。 彼は自分の舌を少女の舌に巻きつけた。 そして、思い切り口腔に引っ張り込んだ。 そのまま強く縛りつけると、少女の息が絶え絶えになるまで唾液を滲出させた。 少女の表情に苦悶が見えたとき、舌を解き放ち2人の唾液が交じり合った唾を飲み込んだ。 二人は畳の上に倒れ、祐二は少女の顔、首、胸元に愛撫の嵐をみまった。 もう少女の体は、十分に受け入れる状態になっている。 このままでは、苦痛に思えるほど燃え上がっていた。 早く楔を打ち込んで欲しいと言うように、喘ぎ声を高めていた。 しかし、祐二はそれ以上の行動を留まった。 「抱いて!」 強くはっきりした口調で、ゆり子は言った。 だが、その言葉を遮るように少女の唇をディープ・キスで塞いだ。 長いキスの後、彼は「まだ高校生だろう」と言う。 自分も同じ立場なのに、暗にセックスを拒むような言葉を口走った。 この頃、性について早熟だった祐二は、未成年ながら既に30人以上の女性との性体験を積んでいた。 そのほとんどが年上の女性でもあり、性技も豊富で深い情交を体得していた。 こうしたことから、ゆり子のように清純な女子高校生をむやみに征服するような、貪欲な欲望を押さえる余裕も持ち合わせていた。 少女は、意外な祐二の大人のような言葉に驚いたようだった。 すぐに、持ち前の理性を取り戻したのか、その意味を理解して言った。 「好きだから射止めて欲しいけど、いいわ、我慢する。本物のセックスは卒業後にするわ」と、あっさりと理解してくれた。 だが実際には、彼の中では男の熱魂が女の湿地帯を求めて、カマ首をもたげていた。 肉体と心の矛盾が、葛藤していた。 好きだと慕って献身的に尽くしてくれる少女を抱いて、その想いに応えたいとする心や女の体も征服したい男の肉欲が確かに存在していた。 一方、それに対して思春期から慕い続ける亮子と再び結ばれたい。 我が心の純粋な思いを貫きたい、とする強い想いも心底にあった。 その双方が、胸の中で揺れていたのは事実。 鍋パーティ 話は戻って、それから1年半後の3月の鍋パーティの日。 石田ゆり子は、東京の私立大学に合格していた。 山中進は、船橋市内の百貨店に就職が内定。 夜間高校に通う祐二とその友人達は、翌月に高校4年生になるため卒業は来春。 まだ、ゆり子と祐二は肉体関係を結んではいない。 しかし、彼女を抱く約束の高校卒業の時期を迎えていた。 だがその日、偶発的な出来事が起こった。 この出来事は、祐二にとっても、最愛の亮子にも、慕ってくれているゆり子にとっても、不幸な結末を招くこととなった。 その日の昼過ぎ、友人たちは三々五々やってきた。 男の手料理では、うまく調理できないことや買い物もあったので、祐二はゆり子を呼んで鍋パーティの裏方を依頼していた。 彼女だけが昼前から部屋に入り、調理の準備を始めていた。 ゆり子は、祐二の恋人のように振る舞い、自ら積極的に初対面の祐二の友達にあいさつを交わした。 彼女が買ってきてくれた新品の電気釜でごはんを炊き、こたつの上にガスコンロと鍋を置き、茶碗、はし、皿などの食器類も整えられていた。 その横では、ちゃぶ台を囲んで、祐二らは未成年だったが20歳を超えている仲間もいて、仕事や学校の話を肴に男たちは瓶ビールを飲み始めた。 まだ明るい陽射しが部屋に差し込み、早春の昼間のビールは、いつになく若い男たちをほどよく能弁にしていた。 狭い部屋に笑い声が響き、その声を聴きながら台所に立つゆり子も生き生きとした表情を見せていた。 時折笑みを浮かべながら、こまめに手を動かして調理に集中している。 鍋パーティ開始の約束の時刻が過ぎても、残る中学時代の友人である山中進はまだ来なかった。 主催者である祐二の判断で、彼の来訪を待たずに食事会が始まった。 こたつの上に置かれた鍋を囲み、男達が鶏肉や野菜に箸を付けた始めたときだった。 玄関のドアをノックする音がした。 最後の来客となる友人がやってきた。 偶発の再会 祐二は箸を止め、急いで玄関先に出た。 人の良さそうな山中が、ニコニコと笑顔を作って立っている。 ピーコートに両手を突っ込んだまま「悪いな、遅くなった」と、悪びれる様子もなく軽く謝った。 「もう先にやっている、上がれよ」と、言ったが、山中の後ろに人影があるようなに気がした。 (あれっ誰かいる?) そう思いつつ、玄関に置かれた友人たちの靴を踏んで、ドアまで身を乗り出した。 山中が体をよけながら「下総中山の駅で偶然会ったので、誘って連れてきた」と、喋った。 (誰だろう・・・) ドアの外で薄い桜色のスプリングコートの身をよじりながら、はにかむ様に立っている女がいる。小谷野亮子。 一日として彼女の笑顔を忘れたこともなく、会いたいと恋焦がれていた少女が、突如目の前に現われた。 (まさか!亮子がいる) 一瞬、祐二は夢を見て別世界に舞い込んだ気がした。 慕い合う二人は、ともに言葉が出ない。 内と外の位置に、そのまま釘付けになった。 中学生だった頃と比べると、一回り体が大きく見える。 前がはだけたコートの下では、成長した胸がトックリセーターの中で、前にも増して盛り上がりを見せている。 肩にはショルダーバッグをかけている。 その肩と首筋は細く見える。以前の鳩胸は薄れていた。 タイトスカートには、一層豊満になった肉感的な腰と臀部がピタリと張り付いていた。 少女から成熟した女の体になりつつあった。 二人の視線が、しっかりと凝視し合った。 見つめ合うその目には、すぐにも涙がこぼれそうだ。 水滴は流れ落ちなくとも、二人は心で泣いていた。 恋する少年と少女が、3年ぶりに再会できたのだ。 (会いたかったわ!) (僕も会いたかった・・・これは夢ではない。現実に起きているとことだ) そう思ったとき、山中が亮子に声をかけた。 「小谷野さん中に入ろうよ」 その声に促されて、亮子は山中の後ろについて部屋に入ってきた。 この衝撃的で偶発的な再会に、祐二は完全に冷静さを失った。 企画した鍋パーティのシナリオのすべてが崩れ、この後は流れに任せるままのアドリブの世界で、食事会が展開してゆく。 狭い部屋に、若い男女7人がコタツを囲んで居並び、鍋パーティが動き出した。 祐二の声は、緊張に上ずっていた。 遅れてやってきた山中と亮子を、夜間高校の友人達に紹介した。 すでにゆり子がいることは、山中が亮子に言った可能性もあるので、祐二はあえてゆり子のことには触れないでいた。 久しぶりの恋人との再会を取り繕いするとともに、亮子とゆり子との接触を避けるように、その気配りを考えていた。 誰も祐二と亮子との深い関係を知らない状況の中、祐二の左横に山中が座り、その先に亮子が座った。 ゆり子は祐二の右横に位置し、配膳や調理のために立ったり座ったりしている。 時折、視線を祐二に向けて彼の指示を確認しているように振舞っていた。 食事会が再開されしばらくすると、やや落ち着きを取り戻した祐二は冷静に情勢を読んだ。 亮子とゆり子が互いの嫉妬心から、ガチンコの争いが起こることだけを心配し始めていた。 神に祈る気持ちで、この食事会が平穏に終わることを願った。 しかし、それは現実的にはかなり難しいことだった。 仮に、無事に食事会が終わっても、その後の展開も問題だった。 全員が同時に彼の部屋を立ち去ることが困難に思えた。必ず、後片付けでゆり子だけが、当然の如く残るのは目に見えていた。 その時の亮子は、どういう反応を示すのか。 果たして亮子と二人きりになれる機会はできるのか、不安は募る一方だ。 筋書きのないシナリオに、心中は<なるようになれ!>だった。 火花 そんな時、ほとんど会話に入れない亮子を気遣って、山中が「小谷野さんは九段の短大に合格したのだよね」と、話しを促した。 亮子は「ええ」と重い口を開き、有名女子大学の名前をあげて短く答えた。 祐二と同じ船橋市立の高校受験に失敗した後、彼女は県内の私立の女子高校に進学していた。 その学校は進学校ではないから、大学に進学するには、よほど本人が受験勉強に努力しなければ合格できない。 苦しみながらも、高校受験の失敗から立ち直り、日本でも有数の女子大学の短大に合格できたのだ。 それを知って、祐二は自分のことのように心から喜んだ。 祝福の言葉をかけようとした。 すると、間髪を入れずゆり子が口を挟んだ。 「よかったわね、おめでとう小谷野さん」 続けて、 「あなたが公立高校の受験に失敗した後、ずっと心配していたのよ。でも立派ね。一流女子大学に進学できるなんて、本当に頑張ったのねえ。えらいわ」と、捲し立てた。 小さな火花が放されたと思った。 ノー天気な山中が追随して、「石田さんだって頑張って、四年制の大学に一発合格したのだ。すごいよな。生徒会長だった荒木は、一高から国立大学に進学するし、級長の石田さんも一流私立大に進学だ。中学時代から優秀な人は、どこまでも優秀だね・・・オレなんぞは、4月からはデパートの肉屋で、枚掛けして包丁を握る店員さ」と、笑いながら話した。 そして、祐二に顔を向けて話を振ってきた 「松岡はどうするのだ。進学するのか?」と、尋ねてきた。 祐二は夜間高校の友人達に気遣って、 「オレ達はすでに就職もしているから、二部の大学でも進学する者はほとんどいないな。少なくとも僕は考えていない。毎月一定の収入があって、財政的な準備ができても、今更、受験勉強する気持ちにはなれないものだ。なあ小磯」 と、自分の進学希望を隠し、祐二が同級の一人に相槌を求めた。 髭をたくわえた哲学者のような風貌の小磯は、 「勉強よりも世の中お金だよ、タイム・イズ・マネーってやつさァ・・・いや違うな。本当は猫に小判ってことかも」 そう言うと大声で笑い、片手に掲げたビールを一気に飲み干した。 このようにして、シナリオのない食事会は推移していった。 ただ、この後次第にゆり子の言動が活発になる一方、対照的に亮子は一層押し黙り、沈黙を通し続けるのだった。 ゆり子は、祐二の女房気取りをする。 食事や飲酒の段取りを、一々あれこれと祐二に聞きながら動く。 その姿をこれ見よがしに、亮子に見せつけている。 亮子は押し黙ったまま、ゆり子の言動と祐二の反応を伺っている。 少しずつ座の空気が怪しくなってきた。 祐二はその急流に気がついていたものの、なす術もなく大きな不安を抱えながら、事態の推移を見守るだけだった。 そして、焦りが生じて体が硬直していくのを覚えた。 いよいよ、不吉な黒い予感が脳裏を走った 飲酒組のペースが一段落すると、ごはんを食べる幕が開けた。 ゆり子は電気釜を横に置き、男たちにご飯を次々によそった。 手際よく一通り、全員の茶碗にごはんがいきわたった。 若者の食欲は猛烈だ。すぐにお代わりの声が飛んだ。 その度に「はい、はい」と言って、ゆり子はまるで母親のような仕草で明るく振舞った。 祐二はゆり子との直接会話を避けるため、ごはんには手をつけずおかずだけに箸を伸ばしていた。 すると、「祐二さん、どうしたの、お代わりは。今日は食欲がないの?」 と、主婦のような言葉で彼に声をかけてきた。 「いや別に」とさり気なく答えた。祐二は顔を下に向けて、密やかに亮子の顔を覗き見た。彼女の顔は、こわばりを示し唇が真一文字に結ばれていた。 (まずい・・・) もう泣きたいぐらいに祐二は気落ちしていた。 不吉な予感は的中した。 席は離れていて、直接の会話は交わさないものの、二人の女の鋭い火花が焼けている。 亮子は、何故ここに、ゆり子が居るのという疑問を深く連想させているはず。 祐二とゆり子との親密度を、女特有の直感で推し測っている。 ゆり子はゆり子で、偶然、山中が今日出会ったとはいえ、祐二が主催する食事会に拒むこともなく、何故同道してきたのかと、疑問を越えて嫉妬の森に迷い込んでいる。 以前から、祐二と亮子は深い仲ではなかったのかと、女は鋭い直感で嫉妬する。 二人とも互いに同じ男を好いている、と結論しライバル心が芽生えたはずだ。 傷心の亮子 ただ、今日の舞台では亮子が不利だった。 当然のようにゆり子は、料理の追加や食べ終わった食器の片付けを、正妻のような振る舞いで始めている。 真っすぐな心根の亮子は、機転をきかして要領よく彼女を手伝い、献身を分け合うような行動はとれない性分。 ゆり子の正妻ぶる振る舞いに、相思相愛の相手だと信じてきた男に女ができていたのだと、敗北感に襲われてくる。 亮子は裏切られた思いで、胸がはち切れんばかりだった。 そして、ついにはその場にいたたまれず、突然に泣き出した。 慌てた祐二が「どうしたの」と、空々しく心配する声をかけた。 しかし、この彼の言葉を聞くと、一層激しく嗚咽した。 祐二は、二人だけで話そうと亮子の腕を掴みかけた。 するとそれを拒否するように、彼の手を強く振り払った。 立ち上がるとコートとバッグを掴み、一目散で玄関に向いて走りだした。 亮子は泣きながら、ドアを開け放して部屋を出て行ってしまった。 「悪いけどみんなでやっていて、彼女を駅まで送ったら戻るから」 と言い残して、祐二は亮子の後を追った。 彼女は国鉄の小岩駅を越え、京成線の小岩駅に向かって、泣きじゃくりながら走っていた。駅の改札を抜け、ホームで電車を待つ亮子に追いついた。 ホームのベンチに座っている彼女は、下を向いたままだ。 祐二は駆け寄り声をかけた。 しかし、祐二の顔を見ようとはしない。 話しかけても無言だ。 まもなく、列車が入線してきた。 亮子の後を追って乗車した。 車内は空いていた。二人は隣同士に座った。 それでも彼女は一切口を開かず、祐二の顔も見ない。 「誤解だ、石田さんは彼女ではない。君だけだ」と、囁くように言った。 そう言ったものの、誤解ではないことは自覚していた。 そのため、何故、今日あの場所にゆり子が居た、という理由を説明できなかった。 ゆり子とは肉体関係がないと弁明しても、許される理由にはならない。 そもそも、その言葉も信用されないかもしれない。 多感な18歳の乙女にとって、肉体関係がなくとも一つ屋根の下に男女が何度かすごしたであろうと推測できるだけで、十分な裏切りの行為になる。 特に、今日のゆり子のライバルとして言動は、裏切りの動かぬ証拠でもあった。 あっという間に、下車駅である京成・葛飾駅(現在の西船橋駅)に着いた。 ここから彼女の自宅までの道は、人通りが少ない。 小学校と中学校が並び建っている、校庭横の近道を二人は歩いていた。 祐二は、無視を続ける亮子の横に並んで歩いた。 「僕には君しかいない、信じて欲しい」と、切願した。 抱き寄せたかった。 だが、自分が悪いことをした罪の意識がそれをさせなかった。 とうとう亮子は、彼女の自宅前に着くまで無言だった。 何を話してかけても無駄だった。 大農の小谷野家の大きな門柱の前に、二人は立っていた。 彼女から、その場所に留まったのだ。 これ以上、彼女を説くには家の中まで押しかけることになる。 その勇気も図々しさも、持ち合わせていなかった。 亮子も家族に、自分に起きた不幸な出来事を知られたくはなかった。 二人は正面で向き合い、互いの目を見つめ合った。 女の濡れた瞳が、祐二を悲しそうに見つめていた。 その前髪は、頭の前部から後頭部まで伸びて、そこで束ねられている。 飾り気のない、若い女の自然な髪の結い方。 前髪をあげているので、彼女の特徴的な額の広さがよけいに際立っている。 可愛い。 昔のままの広いおでこが、美白に艶やでいる。 それは自然なまつ毛と黒い瞳に、見事なまでにバランスしている。 唇や鼻筋もその顔たちの中で、完璧なまでに調和して、可憐な美しいを作っている。 二人はしばらく立ったまま、お互いを見つめ合っていた。 夕陽に照らし出された亮子の顔は、悲し気な表情で少し揺らいでいる。 そこにはいつもの愛くるしい笑顔が消えて、夜叉のような冷たい輝きを放っていた。 それも、耽美的で美しい。 (綺麗だ。この女はボクだけのものだ) 心の中で叫んでいた。 悲しみを押さえる熱い口づけがしたかった。 その額にキスしたい衝動が走った。 でも拒まれる気がした。 祐二は亮子の広い額の生え際に、そっと指を差し入れて撫でた。 拒まない。 しかし、まだ厳しい眼差しで祐二の顔を見ている。 「一日も君を忘れたことはない。君なしの人生は考えられない、解かって欲しい」 そう言って、手を握ろうと手を伸ばした。 だが、その手は強く振り払われた。 「いや嫌い・・・」 初めて口を開いた。 大粒の涙が、美しい亮子の顔からこぼれ落ちた。 この言葉が、偶発的な再会の結末を飾る最後の言葉になった。 「ゴメン、手紙を書くから。本当に好きだ」と、祐二も最後の言葉を残した。 そして、彼女に背を向けて歩き出した。 (サヨナラ亮子・・・) これが今生の別れかもしれない、と覚悟はした。 新オケラ街道の大けやきの木の下で、振り返った。 亮子は、まだ立ったまま祐二の姿を見送っていた。 悲愴 祐二は悲愴感に打ちつけられ、帰りの電車の中で男泣きの大粒の涙をこぼした。 陽が完全に落ちた頃、小岩のアパートに戻った。 そこに、友人達の姿はなかった。 ゆり子の姿も見えない。誰もいない。 もぬけになった部屋には、強風に飛ばされたように食器、鍋、ザル、残された食べ物とビールなどが散乱していた。 そのつもりはなかったが、『二兎追う者は一兎をも得ず』の言葉が脳裏をかすめた。 その日から祐二は抜け殻のようになり、重度の腑抜け状態に陥った。 幼い頃より、どんな艱難辛苦にも辛抱強く耐えしのいできた祐二だったが、この出来事には耐えられなかった。 胸が圧迫され腸もねじれる。 苦しくて息が止まりそうだった。 心の中は悲愴感に、プルシアンブルー一色に染まった。 失恋だったら諦めることもできる。失恋ではないと思った。 互いに未だに好き合っている、という確信もあった。 最後に『嫌い』とはっきり言われてしまったが、祐二には『好きだけど今は嫌い』という意味にも理解できた。 その証拠に、彼女は別れ際に去りゆく祐二の後ろ姿を、ずっと消えるまで見送っていた。祐二は、その視線を背中に感じ取っていた。 だから、本当に嫌われた訳ではないと思っていた。 従って、失恋ではない。 それでも、運命の赤い糸がちぎれてゆく。 心の中は真っ黒闇。 気も狂わんばかりの状態が何日も続いた。 夢も希望もすべてが消えたと、失意の日々を送った。 その後、夜間高校の友人達には毎日のように会う。 あの出来事の責任は自分にあって、悪いのは自分だと皆に謝った。 友人達からは、祐二は二股をかけた悪い男だ、と烙印を押されてしまった。 一方、山中とゆり子からはその後何の連絡もなかった。 祐二からも、連絡をとる気持ちにはなれなかった。 不幸な結果になったが、祐二を除けば誰も悪くはなかった。 亮子を連れてきた山中を、恨むことも筋違いだった。 彼には、何の悪意はなかった。 ただ脳裏の片隅に、ゆり子が来ていることを知っていて亮子を連れてきた。 また、ゆり子が居ることを隠して、連れてきた可能性もなくはない。 その日に偶然会ったと言ったが、本当だったのか。 もしかしたら、事前に誘っていたのではないか、と小さな疑念も残った。 そもそも中学時代に、山中は亮子のことが好きで祐二に代筆をさせていた。 彼は自分の片思いを知ったはずで、その後、祐二と亮子が付き合っていることを知るのは、そう難しいことではないのか。 高校受験のとき、亮子は貧しい祐二に何かと世話をやいていた。 それは祐二の最も親しい友ならば、目の当たりすることはあったはずだ。 山中が片思いの失恋で失意にあった、と考えるとその相手を射止めた男が祐二だと知れば、感ずるところはあったと思う。 まさか、山中が亮子へのラブレターの一件以来、祐二を恨み続けて復讐の策略を図ったのか。 祐二と亮子の仲を拗らせ、あわよくば彼女を自分のものにしよう、と企んだのではないか。 いやいや、それは祐二の被害妄想だろう。 あの山中は、お人好しの心置けない友人だ。 祐二は山中を信じ、全て悪いのは自分だと己を責めた。 ゆり子にも、すぐに謝りたいと思った。 しかし、正直に自分の心の内、つまり亮子を愛していると告白してしまえば、ますます彼女を傷つけてしまう。 最も傷ついたのはゆり子かもしれなかった。 そのことから、すぐには連絡をとれなかった。 こうして、友情も愛情も霧散した。 その後、山中とゆり子には会うことがなかった。 最愛の女との赤い糸がちぎれたその年の6月。 時は、グループサウンズの隆盛期にあたっていた。 その一つザ・ジャガーズが歌う新曲『君に会いたい』が、発売され人気を博していた。 その歌声を聴くたびに、祐二は独り泣いた。 その歌声が、心に沁みた。 そして、僅かな希望への灯は、亮子が再び我が胸に戻ることを願い続けることだった。 「亮子、帰れ。ぼくのこの胸に・・・・」 若さゆえの苦しみ、若さゆえの悩みに今宵もひとり泣く。
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