第13章 そよ風の二人

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第13章 そよ風の二人

松岡祐二との初めてのデートを明日に控え、小谷野亮子は母屋の2階の自分の部屋で、着ていく服を選んでは、三面鏡の前で体に合わせている。 鏡をのぞき込んでは、小さな溜息をついた。 どの服を合わせても、しっくりこない。 自分の顔と体形のせいだと、自信をなくてしまう。 女の疑念 和解後の情交で、祐二は「綺麗だ、美しい」と、言ってくれた。 でもあれは、情念から出た愛の言葉。 彼の主観にすぎない。自分ではとても美人には思えない。 良い所をあげれば、せいぜい額の広さと、色白な点だけ。 特に、体形にはコンプレックスがあった。 自分でも『鳩胸でっちり』と、思い悩んできた。 背も高くはなく、とてもスレンダーな体形とは言い難い。 丸々と太ってはいないが、体幹のしっかりとした、肉感的なプロポーションといえた。 それに引き換え、16歳も年の離れた長姉の恵美は、妹からみても美人に思えた。 面長の顔に奥二重のきりりとした目、高い鼻が整っている。 背も高い。 とても、農家の長女にはみえない洗練された美しさがある。 今は、その姉夫婦と3人で暮らす。 すでに、7人の姉たちは嫁いでこの家にはいない。 父は幼い頃に亡くなり、その面影も思い出もない。 母は、昨年に亡くなってしまった。 小谷野家は、多産系で9人もの子供がいるが、すべて女性の女系家族。 現在は、長姉の恵美の婿養子が小谷野家の家長となって、代々続く農業を引き継いでいる。ただ姉夫婦は、子宝に恵まれていない。 すでに恵美は35歳をすぎて、後継ぎの実子誕生を諦めかけている。 夕食のときに、姉から「亮子の婿さんが養子になってくれるといいね」と、聞かされることがあった。 市立高校の受験に失敗したときには、私立高校の進学に奔走してくれた姉。 さらに小谷野家では、初めての大学進学も認めてくれた。 その親代わりとなって、経済的な支援を続けてくれている。 母親代わりの姉には、頭が上がらないので婿養子の話にも、否定的なことは一切言えなかった。 ただ内心では、亮子は全くそのことを意に介していない。 末っ子の9女で農作業の経験もなく、自分も7人の姉のように嫁いで、いずれこの家を出ていくつもりでいる。 憧れの文化住宅やマンションに住んで、サラリーマンの妻になることを思い秘めていた。 明日のデートでは、この間のように抱かれるのであろうか。 「東京でボートでも乗って食事しよう」と、言われている。 その後に彼の部屋に寄るのかしら、と思いあぐねながらも着ていく服と下着を整えた。 二度目の性愛は、初めてのときよりも衝撃的で激しいものだった。 今でもあの甘美と痺れの記憶が残り、思い起こす度に体の奥底が疼く。 子宮に、楔が打ち込まれたようだった。 思い出す度に、思わず股間に手を入れてしまう。 童顔で可愛い少年が野獣に豹変し、男の力強さと熟知したテクニックに翻弄させられた。 愛されることに、満たされた。 男女の真の営みとは、あのように激しいものなのか。 とても温厚な姉夫婦には、あのように激しく燃える夜をすごしているとは想像がつかない。 それにしても祐二の性技は、未成年とは思えないほど熟知しすぎている。 浅い性経験の亮子でも、直感的にそう感じる。 中学時代の初めての性交でも、彼のなすままに体を預けたが、処女の体をいたわりつつ落ち着いて、巧みにリードしていた。 あの痩せ細って小柄な美少年が、黒豹となってしなやかに私の体を貫いた。 とても、童貞の少年がなす性行為には思えなかった。 きっと性経験がたくさんあるのではないか、と漠然と思っていた。 会えなかったこの3年半の間にも、祐二は性経験を積んでいたのではないかと、どうしても想像してしまう。 ブラやショーツも、いとも簡単に女体から剥ぎ取る。 女の扱いに慣れていて、とても18歳の男子になせるものとは思えない。 性の手下りばかりではない。 髪を長く伸ばし、体には媚薬のようなオーデコロンをふりかけている。 アパートの玄関に置かれていた踵の高いロンドンブーツは、松岡のものではなかったのか。あの靴を、いつどこで履いているのか。 どう見ても、会社勤めをしている苦学生にはふさわしくない容姿。 見た目は、遊び人風の優男そのものだ。 そこに隠された秘密があるではと、不安になってくる。 その不安は、自分が弄ばれているのではないか、という疑惑にも繋がっていく。 都会で夜な夜な遊び、不純異性行為に耽り、その延長線上で私を抱いているのではないか。先週は愛を取り戻して、幸福感に包まれて帰宅したが・・・。 秘密のベールに包まれた美少年の影が、女の心理を複雑にさせる。 私は、複数いる女の一人ではないのか、と疑念に悩まされて眠れない夜が続いていた。 ただ例えそうであったとしても、軽蔑する気持ちは湧いてこない。 特に、若い男に自分との空白の時間を与えてしまった責任は私にある。 しかし、これからは私一人のものになってもらう。 二度と他の女を抱くようなことをさせないと、強く決意をする。 祐二が抱く女は、私一人だけ。 一途な女の意地にかけても、そこに強い執念を燃やす。 千鳥ヶ淵 9月に入っても、東京は真夏と同じように暑かった。 二人は、その九段下を登った武道館の門前で、待ち合わせをしていた。 北の丸公園を散歩して、千鳥ヶ淵の池でボート乗りを楽しむ、初めてのデート。 門前の日陰で、亮子を待っていた。 定刻に、靖国通りから3人の若い女性が緩やかな坂を登ってくる。 何やら和やかな雰囲気で、お喋りをしながらこちらに向かってくる。 亮子が祐二の姿を認めると、一人抜け出して小走りに駆け寄ってきた。 「お待たせ!お友達とお茶飲んでいたのだけれど、どうしても貴方を見たいと、せがまれて連れてきてしまったの。ゴメンナサイ・・・」 と、少し心配顔をみせて、顔色を窺うように瞳を輝かせた。 「全然かまわないよ」笑顔で応えた。 彼女は振り返って、水玉模様のブラウスのフレンチ・スリーブの袖から伸びた白い手を振って、おいでおいでをする。 プリーツスカートが小躍りして揺れる。 にこやかな表情を作って、友人の二人もやってきた。 「紹介するわ、こちらが上井草千鶴子さん、こちらが鵜本亜希子さん」 亮子が笑顔で紹介する。 「上井草です、小谷野さんの彼氏を見に来ました。よろしくね」 と、白い歯を見せて軽く会釈をしてみせた。 白無地のブラウスに、黒いタイトスカートに身を包んでいる。 大人びた印象の、面長の賢そうな美人。 続いて、「鵜本です、初めまして」と、ペコリとお辞儀をする。 ロングヘアーを束ねた後ろ髪が、やさしく揺れる。 キャミソール・ワンピースだったが、この暑さの中、丈の長いトップ・カーディガンを織っている。 痩せて青白い。どこか病人のように覇気がなく翳(かげ)がある。 「松岡です。初めまして」と、精一杯明るく挨拶を交わした。 続けて、皆に聞こえるように「公園の芝生にでも座って話をする?それとも暑いから科学技術館でお茶でもする?」と、亮子に尋ねる。 彼女は、すぐに友人二人に顔を向けて、「またお茶でも構わないかしら?」と、言った。 すると上井草は、「ううん、私たちはもういいのよ。ひと目、小谷野さんの彼氏を見るのが目的だから。ステキな人だと確認できたから失礼するわ。お似合いの恋人同士ね。お邪魔虫は消えます。ねえ鵜本さん」 そう言うと、鵜本に同調を求めた。 「ええ、そうよ。私たちは松岡さんを拝見できたので十分よ、恰好いい人ね。スタンドカラーのシャツ着て、髪は狼カットのロングヘアーで、芸能人みたいな人ね。モテそうだから、横取りされないように気を付けないさいよ。じゃ~ねっ」と、笑顔で相槌を打った。 そこで和やかに、二人と別れの挨拶を交わした。 彼女たちが坂を下り、右に曲がるのを見届けた。 その時、上井草の後を遅れて歩く鵜本亜希子が、足を引きずるような歩き方をするのを見た。(・・・怪我でもしているのかな?) 「急なことでびっくりしたでしょう。実は前から3人で会う約束だったから、少し早めに切り上げてもらったの。許してね・・・」 と言うと、祐二の体に身を寄せてきた。 すぐに彼は手を握った。 「僕が強引にデートに誘ったのだから、君は悪くないよ・・・でもいい人たちじゃないか。二人とも、お金持ちのお嬢さんみたいだね」 「そうよ、二人とも裕福みたい。私と違って、都会育ちで上品な感じでしょう?」 「・・・」 二人は、武道館の前を通り過ぎ、北の丸公園の木立の中へと足を踏み入れた。 休日なので、家族連れや若いカップルが散策を楽しんでいる。 千鳥ヶ淵の池が、見渡されるベンチに座った。 肩を抱いて引き寄せた。 彼女は、待っていたように体を傾けた。 女の髪が男の頬に触れると、甘い女の香りが漂った。 昼間の静寂さに、二人だけの時間が止まった。 二人は、黙ってそのままの姿勢を保った。 何もいらない、君だけがいれば、貴方だけがいればいい。 そんな幸福な時間が、ゆっくりと流れた。 ブラウスの袖から伸びる、柔らかな白い腕を撫でる。 男の手は腕から腰にも伸びる。 ウェストのくびれと、プリーツスカートの下の肉感的な腰にさらりと触れる。 人目があってキスができない。 それでも1時間ほど、二人だけの世界に浸った。 「ボートを乗りに行こうか」と、囁く。 彼女は、無言で頷いた。 立ち上がりざま、広い額にキスをした。 女がはにかみ、身を縮めてみせる。 すぐに手をつなぎ、歩き出した。 20分ほど歩くと、千鳥ヶ淵のボート乗り場に着いた。 ボート乗りを待つ人々が行列を作っていた。 40分ほど待って、ようやく二人はボートに乗り込むことができた。 そよ風 水上には緩やかだが風が流れ、地上よりも涼しい。 二人は、ほとんど言葉を交わさない。心は穏やかに澄んでいる。 まるで二人がそよ風を生んでいるように、二人の姿は風が似合っていた。 ボートは乗り場から遠く離れて、高速道路が走る橋の下を潜り抜けた。 櫓をこぐ手を休めた。 二人は向き合って見つめ合っている。 今の幸福感を互いに確認している。 「幸せだよ・・・君が僕のものになってくれて、今こうして二人だけの時間をすごしている」 「私も幸せ、貴方が私のそばに戻ってきた・・・」 その言葉を聞くと、祐二は涙がこぼれそうになった。 ボートに仰向けに寝そべって、目頭を押さえた。 その手から涙が漏れ落ちる。 涙の理由は、恋の結実だけではない。 生まれて初めて知った幸福感に、心の底から震えていた。 幼少の頃からの、暗い家庭生活。 貧乏に加えて、父親の暴力、継母の継子虐め、自由を奪われた家事労働とそれらの影響をもろに受けた惨めな学校生活。 16歳で自活し、働きながら夜学で学び、深夜は水商売にも身を投じてきた。 心が休まる時はなかった。 中学生の時、心の支えになってくれる少女に出会った。 相思相愛の純愛を育み、心も体も結ばれた。 その後、契れほぐれそうになった糸は、今こうして縫い合わせることができた。 亮子が、救ってくれた人生でもある。 ボートから見上げる青空に向かって、 「俺の全てである亮子をこよなく愛し続ける」と、心に誓った。 ボート乗りを楽しんだ二人は、その後、神保町に出て夕食をする。 その夕食が終わる際に、 「ホテルに行きたいけど、いい?」と、尋ねた。 彼女は無言で、頭を小さく縦に振った。 ラブホテル 二人を乗せたタクシーは、薄暮に染まる都会の街並みを走る。 車は湯島に入ると、大通りから路地に消えた。 路地裏の小さな坂道の途中に佇む、ラブホテルの前で停まった。 男は女の腰に手を添え、抱きかかえるようにホテルに入る。 女は、初めて経験するラブホテル。 男は部屋に入ると、いきなり女の体を引き寄せ、強く抱きしめた。 ショルダーバッグが、肩から外れて床に落ちた。 すぐに、情熱的なキスをした。 舌を大きく入れ、強引に女の舌に巻き付けた。 呼吸をする暇も与えず、その舌を吸い続けた。 女が苦しくて、顔を揺すった。 きつく抱きしめたまま、口を放した。 女は、ハァハァと荒く呼吸をしている。 休まずに、首筋と耳に熱い息を注ぎ愛撫を続ける。 「好きだ」と、耳元に囁いた。 「私も貴方が好きよ!」と、叫んで両手を男の首に廻す。 男の手は、女の背中と腰を強めに撫でまわす。 プリーツスカートの裾を掴むと、捲り上げた。 スカートの中で二つの桃尻を撫で、股間にも手を入れ擦る。 女の腰が捩れる。 体を離すと、屈んでショーツだけを両手ですばやく下げた。 そのまま女を床に押し倒した。 プリーツスカートを捲り、女の上半身に被せた。 足に引っ掛かっていたショーツを、剥ぎ取った。 肉感的な下半身が、曝け出された。 スカートを捲られ、剥き出た下半身は全裸よりも艶めかしい。 そそられ、男はいつもより性急だった。 男は立ち上がり、着ているものすべて脱いで女を見下ろす。 いつになく、男は乱暴な動きだった。 女を力で翻弄したい欲望に駆られていた。 女は、「スカートとブラウス脱いでいい?」と、聞く。 「ダメだ、そのままでいいから」と、冷たく否定した。 「皺くちゃになっちゃうわ、ブラも外したいの」と、怠そうに言う。 「ダメッ」と、強い口調で言い切ると、女の尻を手で叩いた。 女は諦め、それを合図に姿勢を整えた。 スカートを履いたままの姿で、女を征服してみる。 女の虚ろな目が開いた。 驚きのあまり、口を開けたがすぐには声が出ない。 その代り、喉から低く唸った。 フィレンツェのヴィーナス 部屋は冷房が効いている。 愛の交歓が終わり、全裸のままでいると体が冷えてくる。 二人はダブルベットに入り、胸まで毛布をかけて横たわっている。 祐二は、右腕で亮子の肩を抱き、女は男の胸に顔を寄せていた。 「私、綺麗?」 突然、ポツリと女は尋ねる。 「綺麗に決まっている」と、即答する。 「抱かれる度に、綺麗だと言ってくれるわ。でも本当なの・・・私その度に不安があるの・・・私が欲しくて、口説き文句でそう言っているだけじゃないかと」 「何言っているの、本心だ。心の底から綺麗と思っている。好きだから綺麗な訳じゃない、顔も心も綺麗だから好きになった」 「じゃ聞くわ、どんなタイプの女性が好きなの?」 (急にどうしたのだろう、何かあったのか・・・) 「質問が続くね・・・そうだね、芸能界で言えば・・・そう『内藤洋子』かな、おでこが広くて目が美しい、唇が魅力的だね。はにかんだ笑顔が似ている・・・」 「ふふん、知っているわ。テレビで『氷点』を見ていたの。そうなの『白馬のルンナ』に似ているの。似ているなんて思ってもみなかったけど、そんな風に見えるのなら・・・女として悪い気はしないけど、本当にお世辞が上手なのね」 「顔が綺麗で、可愛かったから好きになったのは確かだよ、でもそれは好きになる動機というか、きっかけ。一番好きなのは、君の純粋さ・・・心だよ、心の美しいところだよ。一途でひたむきな性格に惚れている・・・今は女としての魅力にも、僕がとりこになっている。信じて欲しい」 「ありがとう、信じるわ・・・でも女がホロリとするような言葉が、次から次に出てくるのね・・・恋の魔術師か、プレイボーイみたいにね」 (まだどこかで、疑念を持っている) 「松岡クン・・・続けてお話ししていい?」 (ここしばらくは『貴方』と呼んでいたのに、久しぶりに松岡クンと呼ぶ・・・) 神妙な面持ちで話しを始める。 (被告人になったような気分になってくる) 「どうしたの、真面目な顔して・・・いいよ、何でも話して」と答えたが、不安がよぎる。 「私ね、実は隠していることがあるの。これから説明するけれど。だから、貴方も隠していることがあったら、後で正直に話して頂戴。二人の間に、隠し事をしないようにしたいの。もう私は、完全に貴方のものになっている。身も心も、貴方なしには生きていけそうもないの。だからお互いに、全てを理解し合いたいの、いいでしょう」 「そうするよ。君に対して嘘はついていない。僕の君に対する気持ちは一点の曇りもない。ただ、過去の僕の人生にはいろいろあったから、君に話していないことは沢山ある。隠すつもりはないけど・・・」 「勿論よ、貴方の全てを知りたいけれど、今お話ししていることは、今の私と貴方との関係の中で、隠し事はしないという意味です」 「分かったよ、じゃ君の隠し事を聞かせて」 「はい・・・実はね。あの3月の小岩での出来事の後、石田ゆり子さんから、私宛に手紙が届いたの」 「えっ、そんなことがあったの」 (何を書いて寄越したのだろう) 「貴方との関係について、書かれていたの・・・」 (え~っ、まさか・・・) 「貴方と石田さんとの間には何もなかった。男女の仲、つまり恋愛関係には全くないから、誤解しないでと書いてあった・・・貴方が苦労しているのが、友達として心配だったので、様子を見に行った。そうしたら、案の定、貧しい生活を送っているので、少し援助をしただけと、だから肉体関係もないし、キスひとつしていないと・・・それに自分には、好きな男性がちゃんといるからとも書いてあったわ。松岡君は、小谷野さんのことしか眼中にないから心配しないで、彼の胸に飛び込んで行きなさい、と進言まで書いてくれていた・・・」 「へえ、そうなのか、それで誤解が解けたわけ・・・」 (石田ゆり子は嘘を書いている。最後の一線の肉体関係はなかったが、口付けも愛撫もした。あの日に、亮子が山中進とともに現われなかったら、おそらく深い仲に発展していた。 それに、好きな彼氏がいると言うのも、嘘だろう。 彼女は中学時代から僕のことを好きだった、と告白をしているのだから。 でも、結果的にはよかったと思った。 しかし、石田ゆり子には申し訳ない気がした。 彼女もあの日、泣いて帰る亮子を追いかけて行った僕の行動を見て、僕の心が亮子にあることを知ったのだろうから。 利口な彼女のプライドが、そうした手紙を書かせたのかもしれなかった) 「もう一つあるの」 「まだ隠し事があるの?」 「ええ、でも私の隠し事じゃなくて、疑問があるの。貴方についての疑問が。答えてくれたら、大した問題じゃないかもしれないけれど、モヤモヤして毎日眠れなかったの。教えて欲しいことがあるのよ」 「それって、僕の隠し事になるのじゃないの?」 「そうかもしれない、じゃ思い切ってお尋ねします」 「いいよ、どうぞ」 開き直った気分になった。 「私、貴方の過去には、そんなに執着はしていないつもりよ。生い立ちや家庭のこと、学校のこと、異性関係だって・・・特に過去の異性にヤキモチ焼いても、どうにもなるものじゃないわ。大事なのは、これからのこと。前に約束したわね。私は貴方のものになったから、貴方も私だけのものになってと、貴方は約束してくれたわね・・・」 「約束は守っている、君しかいない・・・」 (約束したその日に、止むを得ず破ってしまったが・・・) 「信じているわ・・・でも少し不安があるの。言うわ・・・私、貴方に抱かれる度に、女になっていく自分が恐ろしいぐらい。まるで、底なし沼に引き込まれるように、落ちていくのを感じるの、貴方の魔性に溺れるようにね。貴方のその魔性が過去に作られたものなら、いいのよ。大好きな男からこれほどまでに、女にしてくれるのは本望よ・・・でも貴方は、常にオーデコロンを身に振付け、髪も長髪にして、今日もスタンドカラーのシャツを着ているわ。何故なの・・・ただオシャレなだけなの、貧しかったから、働きながら学校に行っているのじゃないの?」 「・・・・・・」 返答に困った。何かも吐露すべきか迷った。 「私は正直、自分のことをヤキモチ焼だと思うの。一途な女で独占欲が人一倍強いと思っている。だから、貴方がこれから私以外の女の人を抱いたら、死ぬかもしれないほど、貴方が好きなの・・・だから許して・・・見てしまったの、貴方の部屋でカバンからこぼれた中身を・・・」 「そうなの・・・」 女は嗚咽を漏らし、涙を流している。 男の胸にも、その涙が落ちてくる。 「カバンにあったブランド物の香水やハンカチ、外国製の腕時計や万年筆・・・それに貯金通帳も見てしまったの、すごい額の数字だった。ゴメンナサイ許して・・・」 「愛する人をそんなに悩ませて、苦しめていたのか・・・先週、きちんと話しておくべきだった。僕が悪い」 「本当は聞くことも怖かったの。そのことで、貴方が離れて行ってしまったらと、悩んできたの・・・それでも何故って・・・農家育ちで働いてもいない私には、世の中こと何も分からないの・・・教えて何があるの、貴方の秘密を教えて?」 「分かった、正直に話すよ・・・涙を拭いて」 そばにあったバスタオルを手にとり、拭いてあげた。 「深夜にアルバイトをしている。六本木のサパークラブでホストをしている。最初はボーイだったけれど、貯金を殖やすためにホストに転向した。正直に言えば、女の人の接客をして、店が終わってから誘われることも多い。ただ毎日は行っていない。今は週に一度くらい。3月に君に会ってから徐々に減らした。以前は、いつ君に会えるか分からなかったけど、会えるようになったら辞めるつもりだった・・・」 「面白かったの、女の人に誘われたかったの?」 「違う、お金のため。弟や妹に仕送りもしたかったし、夜間大学にも進学したかった。そして、いつしか君と結ばれ、結婚できるようにその資金が欲しかった」 「ありがとう、正直に話してくれて嬉しいわ、私との結婚まで考えていてくれていたの・・・でもお金がなくともいいわ、貧しい貴方でも好きだし、貧しくても結婚はできるわ」 「いや、それは違うと思う。現実には、お金は必要不可欠だよ」 「それは分かっているつもりよ、でもその深夜のお仕事は辞めてもらえる?体にも悪いわ・・・睡眠不足じゃないの、それに女の人からの誘惑の危険がいっぱい。貴方は、人がいい人間だから、誘われると断れないタイプでしょう。辞めて下さい。お願いよ!」 と、再び泣き始めた。 祐二も何故か悲しくなって、いじけるように背を向けてしまった。 そして彼女に背を向けながら、低い声で言った。 「分かった。約束する。ホストは辞める・・・」 「そうして・・・怒ったの。貴方・・・許して、大事な愛だから、大事な人だから、お願い。こっちを向いて頂戴、背中を向けないで・・・抱いてよ」 男は背中を返して、仰向けになって天井を見ていた。 女は、悲しみに涙が顔になっている男の口を塞いだ。 「好きよ、好きなの。死ぬほど好きなの!」 女が男の体の上に乗ってきた。 男の唇や首筋にキスをする。 男はすねて、黙って女の愛撫を受けた。 「あっあっ・・・くるわ」 そう言うと、男の胸に倒れ込んできた。 「ああっ、いいわ。貴方」と喜びの声を上げると、自ら動き始めた。 そして、遠慮のない大きな声を発した。 続いて、動物のような低い唸り声を上げ、全身を痙攣させて男の胸に倒れ込んだ。 ぐったりとした亮子の体を反転させて、仰向けに寝かせた。 その横に座って、じっくりと女の全身を眺めた。 色白の体が輝いている。 もう無垢な体つきではない。ふくよかで艶ぽっい。 絡み合いの度に、魅力的な女の体に変わってきている。 首が細くなり、肩が撫で肩になり、ウェストも細まってきた。 逆に腰回りは、前にも増して豊かになった。 両の乳房も膨らみを増し、たわわに実っている。 それらの肉感的な凹凸が、彫刻のように目に映る。 中世の西洋美術に、描かれている裸婦像のようだ。 印刷屋の仕事で、美術展のポスターを請け負ったことがあった。 その時に見た『サンドロ・ボッニィチエッリのヴィーナスの誕生』に描かれたヴィーナス像を思い出していた。 ふくよかな肉体と慈愛に満ちたやさしい表情で微笑み、神秘的な美しさを秘めたヴィーナスの顔。そのヴィーナス像と亮子の肉体と顔が良く似ていると思った。 亮子には、モデルのような端正な顔立ちとスレンダーなスタイルの美しさはない。 しかし、祐二は、亮子にはそのヴィーナスに似た神秘の美しさと母性の豊かさを感じる。 今まさに、フィレンツェの美術館に眠る『ヴィーナスの誕生』を鑑賞しているような錯覚に陥っている。
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