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第2章 若い叔母
継母の順子には、小百合という年の離れた妹がいた。
無理やり実母から離された裕二に同情し、何かと親切にしてくれたやさしい義叔母の女性。ただ順子とは年が離れていて、裕二とは9歳差しかない女学生の若き叔母であった。
ちなみに継母の順子は、1929年(昭和4年)生まれだったので、裕二とは19歳違いの若い継母でもあった。
浅草・鳥越の松岡家の本家から飛び出した庄作に、強引に連れ出された息子の祐一は根岸にある愛人宅の平屋の借家に緊急避難的に仮住いするのであった。
そこでは父と愛人の順子とともに、その妹の小百合と祐一の4人が暮らすようになった。
ただ、妊娠していた順子が次第にお腹の中の赤子が成長するのに伴い、女学生であった妹の百合子が幼子の祐一の面倒をみるようになっていった。
小さな貸家であったので、義叔母になる小百合と祐一は同じふとんで寝起きを共にする。
祐一は、時々寝小便を漏らした。
だが小百合はいつも笑って、そのアンモニアの沁みついたふとんを、外にある物干し竿に干して乾かしてくれた。
そうしたことを知って、寝小便をした祐一は、彼女に「小百合姉ちゃんごめんなさい」
と、泣いて謝るのだった。
その敷布団が生渇きで湿っぽい状態にあると、その夜には風邪をひかないようにと小百合は祐一を横抱きにして温めてくれた。
実母から離された祐一は、母に甘えるように小百合の胸に顔を埋めるのだった。
継子と私生児
父の庄作は、本家から受け取っていた手切れ金を元手にして、既に江東区深川清澄町に<松岡工房店>を開業する準備をしていた。
その深川清澄町は、継母となる順子が生まれ地でもあった。
やがて、その自宅兼店舗が完成すると、庄作一家は根岸から移転する。
ただ、叔母の小百合はそのまま根岸に一人残り、学業と飯田橋において父母が経営する雀荘の手伝いを再開するのだった。
それでも時々は、清澄町の新築の家に来て裕二の遊び相手になってくれた。
それは彼女の母性愛からくるやさしさでもあったが、内々には実家の両親からの示唆でもあった。
順子と小百合の両親(裕二の義祖父母に当たる)は、実母から無理やり離された裕二のことを心配して妊娠中の順子では何かと目が届かないことがあるので、幼い裕二の面倒をみるように小百合に指示していた。
この義祖父母の二人は温厚な人たちで、この後も血の繋がらない義孫の祐一をやさしく見守ってくれた。
義妹の誕生
やがて順子は、1955年(昭和30年)5月に清澄町で女の子を産んだ。裕二に義妹ができた。
早速、出生届出書が江東区役所に提出されたが、父親である庄作の戸籍簿に妻子として掲載されることはできなかった。
何故ならば、庄作と裕二の実母との正式な離婚が成立しておらず、実態として庄作の妻となっていても順子と生まれたその娘は、戸籍法によって庄作の戸籍に入籍することができなかった。
そのことから、庄作の戸籍簿には「田辺順子の同戸籍である女子の認知届受付」と、生まれた娘の名前と生年月日が記されている。
つまり、生まれた女の子は私生児扱いとなり、母である順子の独立した戸籍に入ったものである。
裕二の実母と庄作の離婚が成立していなかった理由は、裕二の実母が庄作との離婚に応じていなかったからである。つまり協議離婚が法的に成立していなかったもの。
裕二の義妹にあたる女の子は、私生児扱いで誕生していたのだ。
小学1年生の裕二には、そのような込み入った事情は知る由もない。
それでも、妹ができたという自覚はあった。
こうした複雑な因果もあって、赤子の母である順子の心中は、次第に怒りと義憤に駆られてゆく。
この鬱憤と憎悪は、継子である裕二に向けられてしまう。
これを契機にその後の裕二は、順子の継子苛めの対象となって、日々苦しめられることになる。
父の庄作が創り出した二人の女のバトルは、幼い裕二とその異母妹になる赤子の女子にも長くて暗い影を落としてゆく。
折檻
浅草・鳥越の祖父の商家で三代目の跡取り候補として、幼少期にお坊ちゃま生活を送っていた裕二は、行儀見習いなどの作法などは受けていたものの、同年期の男の子としての腕白さや活発さには全く欠けていた。
只々、温和でやさしいだけが取り柄の子供になっていた。
そのため深川清澄町に居住するようになっても、その性格は変わらなかった。
深川の下町では、住宅街が立ち並ぶ一角にある十字路を挟んで、幼児や低学年の男子達が<戦争ごっこ>をして遊んでいた。
手には木剣を持って、さらにポケットには小石を詰めて、大きな声を張り上げて隣町組の敵方となった男子らを攻め込むのである。
裕二は、そんな戦争ごっこは怖くて参加するこができなかった。
また自邸の近くには小名木川が流れていて、高学年の児童が汚染されて汚い川面を平気で泳いでいたが、裕二は水が恐ろしくて川岸に立つことさえもできなかった。
従って、小学校に入学するまでは、近所の幼女らとままごと遊びをするのが祐一の何よりの楽しみであった。
だが、そうした裕二の弱弱しさを見かけるたびに庄作は、怒りをあらわにして近所にも聞こえるような大声を張り上げて、裕二の手を無理やり引いて自宅前に戻すのであった。
そして玄関前で止まると、裕二の片腕を持ち上げて大吊りにする。
裕二はいつものようにその折檻に泣き叫ぶが、泣けば泣くほど庄作の怒鳴る声が大きくなって裕二を罵倒するのであった。
父兄同伴
やがて満6歳を過ぎた祐二は、江東区立の深川の白河小学校に入学する。
そこには、勉強も運動も苦手の少年の姿があった。
継母の順子は赤子を産んで間もないこともあり、また父親の庄作は教育には無関心であったため、授業参観、運動会、遠足などに両親が参加することはなかった。
それを察して、義叔母の小百合は学校行事があるたびに、親代わりとなって代役を務めてくれた。
遠足の際などには先生や父兄から、二人は「若いお母さんね」と冷やかされた。
ただ裕二は、嬉しさで胸を熱くしていた。
母親に対するような思慕の気持ちなのか、異性に憧れる恋心なのかは、自覚できていなかった。
流転の始まり
傲慢な性格から客商売が下手な裕二の父は松岡工房店が倒産すると、深川・清澄町の自宅兼店舗を売却した。
そして松岡一家の4人は、都下・北多摩郡国分寺町に小さな平屋家を新築して移転した。こうして祐二少年は、小学校2年生の時に初めて転校を経験する。
国分寺の自宅の前には、武蔵野の雑木林が鬱蒼(うっそう)と茂り、その先には大きな酪農を営む農家があって牛が牧場で飼われていた。
当時の国分寺町戸倉新田は、東京のベッドタウンとして宅地開発が始まったばかりだった。
従って、この辺りはまだまだ武蔵野の自然の面影を色濃く残していた。
移転した直後の分譲地には、松岡家以外にはまだ一軒も新築の家がなく、松岡家は販売業者の「太陽住宅」の第1号の分譲地購入者であった。
国分寺第二小学校に転校した裕二は、早速クラスの女の子と親しくなった。
学校近くの農家の孫娘で、目がクリクリとした少女タレントの<松島トモ子>に似た可愛い女の子だった。
夏の頃に、その「よんこちゃん」の家に遊びに行くと、おみやげに大きなスイカを貰った。
裕二が小さな体で、大きなスイカを両腕に抱えて畑道を歩いていると、他の農家の人達がスイカ泥棒ではないか、と疑惑の眼差しを向けられた。
裕二は、愛想笑いを浮かべて家路を急いだ。
こうして裕二はまたしても、女の子の友達を作って転校したギャップを和らげていた。
ガチャポン
祐二は、小学3年生の頃から、風呂焚き係などの家事を父母から強いられていた。
その井戸は、南側にある半坪ばかりの小さなスペースに設置されており、風呂場は裏の北側にあった。
井戸は『ガチャポン』と言われる手動による汲み上げ式。
ホースロッドと呼ばれている鉄製の『汲み上げ棒』を上下に動かして、水を地下から汲み上げる。
大きなバケツにその井戸水を入れるためには、この重くて長い汲み上げ棒をガチャコン、ガチャコンと音を立てながら何回も動かす。
しかし、小柄な少年には腕力が足りないので、飛び上がっては棒を上に動かし、次にはその反動を利用して体重を乗せて下に振り下す。
これらの運動は、ジャンプ、懸垂、ウサギ飛びの連続運動を繰り返すことと似ている。
次には、井戸水で満杯になったバケツを手で持ち上げ、裏庭まで自力で運ぶ。
そして、風呂桶にその水を流し込む。
風呂に、十分な水が溜まるまでこれを繰り返す。
これらの肉体労働を、ほぼ毎日のようにやらされた。
ただ、これは腕力と背筋力を鍛えてくれた。
絶え絶えに息も上がるこれらの運動を耐え忍ぶことによって、内々の精神力の強さと粘り強い根性も次第に備わってきた。
そのため痩せすぎの小柄な体だったが、次第に強靭な足腰が徐々に備わっていった。
そのことから彼には飛びぬけた運動神経はなかったが、健脚だけは内心自信を秘めるようになる。
しかし、誰にもそのことを話したことはなかった。
彼は元々生まれつきの病弱で、ひ弱な体質の影響もあっておとなしい性格。
内向的で思ったことは、今もってはっきりと口に出せない引っ込み思案だ。
学校では、問われたこと以外にはほとんど口を開いたことがなかった。
みどりちゃん
佐々木みどりちゃんは、同じ戸倉新田に住んでいた近所の同学年の男子である。
そのお母さんは日本人だが、お父さんはアメリカ人で立川基地に勤務する軍人だった。
みどりちゃんは、野性的で活発な子だった。
ずいぶんと変わった性格で、学校では友人がいなかった。
家事手伝いに追われて遊ぶ暇もない裕二だったが、みどりちゃんが気まぐれに裕二を誘い出しに来ると、両親は何故か、それを快く許してくれた。
だが裕二は、みどりちゃんと遊ぶことが苦手だった。
それは、彼がいつも武蔵野の森、林、野山などへ探検に行くからであった。
裕二は、昆虫や爬虫類の生き物が怖くて大の苦手であった。
だが野生児のみどりちゃんは、裕二の気持ちも知らずに冒険の旅に連れ出す。
そして必ず蛇やカエルを捕獲するとともに、野イチゴやどんぐりなどを採っては食べている。
ある日、みどりちゃんは毒蛇のマムシを手掴みで捕獲して、森から意気揚々と引き揚げていく。裕二は恐ろしくて、その後ろから距離を置いて帰宅の途につく。
裕二の家の庭に入ると、みどりちゃんは捕獲したマムシをブンブンと振り回したうえに、地面に何度も叩きつけて殺した。その野蛮さに裕二は驚くばかりだった。
その後みどりちゃんは、庭の物干し竿にマムシを吊るして、意気揚々と自宅へと引き上げていった。
裕二は怖くなって、継母の順子にそのことを報告する。
すると順子は「すぐに、前の林の中に捨てて来なさい!」と命じた。
恐る恐る裕二は、庭へと戻り物干し竿に吊るされたマムシの死骸へと向かった。
だが、そこには吊るされたはずのマムシの姿はなかった。
裕二は、マムシはまだ生きていて身をくねらせて、家の前にある林の中へと逃げ去っていったと思った。
その後はしばらく、裕二は家の前の雑木林の中へ足を踏み入れることができなかった。
翻って、みどりちゃんの佐々木家と松岡家が珍しく親しくしていたのは、継母の順子がみどりちゃんの母親に夫の無職について愚痴をこぼした事がきっかけだった。
それを聞いたみどりちゃんの両親が、米軍の立川基地に勤めることを勧めてくれたのである。どう言う訳か、庄作は片言ながらも英会話ができて、かつ装身具造りや宝石の原石研磨の経験があって、巨体に似合わず手先が器用であったのだ。
そのため、日本の陶器の先生(講師)として、米軍で働くことができたのである。
こうした事があって、下校後には家事労働に明け暮れていた裕二は、みどりちゃんが遊びに来ると、共に遊んで同道することを許されていたのである。
しかし、やがて半年もするとみどりちゃん一家は、米国に帰国することになった。
すると置き土産に、みどりちゃんが乗っていた古い少年用の自転車と、飼い犬と飼い猫を動物嫌いの松岡家に置き土産に預けて帰国するのだった。
犬は<リタ>、猫は<スモーク>と言う名前があった。
リタはおとなしい性格で、あまり番犬の役目は果たさなかった。
かたやスモークは逆にやんちゃな猫で、飛んでいる尾長鳥をジャンプして捕獲するほどだった。
だがいつのまにか、リタとスモークは裕二が知らない間に家から消えていた。
みどりちゃん一家が帰国して1カ月も過ぎると、父の庄作は立川基地の仕事を失職した。そのため、再びどん底の貧乏生活が復活してしまう。
裕二は、順子の実家に借金をするために、度々お使いに出された。
頭を下げない庄作とこれ以上の無心することに気が引ける順子は、福生町の実家には行こうとしなかった。
それでも裕二は叔母の小百合に会える期待で、喜んで順子の実家に借金のお使いに行った。それは義・祖父母から、こずかいをもらえることの期待もあった。
たまらん坂
やがて暑い夏が来ると順子は、裕二に国立町まで行って氷を一貫目買ってくるように命じた。
裕二はみどりちゃんに貰った少年用の中古自転車にまたがって、国立町の氷屋さんに向かった。
国分寺の戸倉新田から国立駅の商店街までは、行きは下り坂だが重い氷を載せた帰り道は上り坂になる。
内藤新田の急な坂を、懸命にペダルを漕いで上り続ける。
風呂水を汲むための、ガチャポンで鍛えた足腰が発揮される。
しかし、国鉄の踏切の凸凹の線路内に入ると、ガタガタと自転車が左右上下に揺れる。
すると突然、掴んでいたハンドルが、車体から外れて折れてしまった。
裕二はその拍子に、前面につんのめって横転した。
通過列車がやって来ると<万事窮す>の大事故になる。
裕二は、壊れた自転車を抱えながら必死で踏切を渡った。
そして、渡り切ったその場所に自転車を捨て置いた。
すぐに反転して、線路内に投げ出されていた<一貫目>の氷を腹と胸に抱きかかえて徒歩で帰宅するのであった。
家に着くと胸と腕は、解けた氷の水と汗でビショビショになっていた。
裕二が古い少年用の自転車に氷を積んで、自宅に戻る帰路に登った急坂は、後には「たまらん坂」と呼ばれるようになった。
この急坂を登った東京商科大学の学生達が、この坂は「たまらん」と言ったことから名づけられたそうだ。
なおその後には、この近所に住んでいた歌手の亡き「忌野清史郎」氏が、このたまらん坂にちなんで<多摩蘭坂>という楽曲を残している。
自殺未遂
毎日のように続く井戸水の汲み上げとそのバケツの運搬。
続いて紙くず、木枝、石炭を使った風呂焚き、遠い国立町までの買い出し。
さらには、庭掃除や部屋の掃除。
時には、生コメを濯いでのご飯炊き。
続く食後の食器洗いなどと、裕二は小間使いの女中のように家事労働を強いられていた。
さらに、何か失敗や粗相をすると、怒鳴られ叩かれて折檻されるのだった。
そうしたことから、裕二の体には絶えず痛めつけられた生傷があった。
一番辛かったことは、家から放り出されて「外で立っていろ!」と、闇夜に放り出される事だった。
武蔵野の夜は深いが、星空が多く空気は澄んでいた。
その高い夜空に向かって、思い出せない実母の顔を必死に探した。
叩かれる暴力と、その罵声は日常茶飯事なので慣れてもいた。
だが、夜に外へと放り出されることは辛くて寂しい。
その悲しみは、より孤独の辛さが身に染みる。
そんな時には、実母が無性に恋しくなった。
だが母の顔は、はっきりと記憶にはない。
母さん!どこにいるの?
裕二は一人泣いた。
耐えられぬ孤独の辛さに、初めて死にたいと思った。
その時に義叔母の小百合の笑顔が浮かんだ。
でもそれはすぐに消えてしまった。
「小百合姉ちゃんサヨナラ!」
もう死ぬしかないと思った。
しかし、自殺する術を知らなかった。ナイフや首吊り用の紐も持っていない。
すると裕二は、呆然として裏庭から歩き出した。
暗闇の武蔵野の奥深い森へ向かって、歩き出すのであった。
今は感情が高まっていて、死ねる勇気と覚悟があった。
だから夜の森も怖くはなかった。
数時間、森の中をさ迷った少年は、折檻で夕食を与えられていなかったため、空腹と喉が渇いてフラフラと深夜の草むらに倒れ込んだ。
そして倒れたまま、朝まで草むらの中に痩せこけた体を硬直させていた。
翌朝になって、裕二が家に戻っていないことに気が付いた両親は、行方知れずとなった裕二の探索を警察署に通報した。
そして、近所の戸倉新田の町内会の人達も捜索に協力してくれた。
昼を過ぎた頃、森の中に倒れ込んでいた少年を農家の探索隊の人達が発見してくれた。
両親は警察から叱責を受けて指導されたものの、当時は家庭内の揉め事として警察は民事介入しない姿勢だったので、単なる口頭注意で事はおさめられた。
今日では家庭内暴力、折檻、強制的な不登校などの児童虐待は、重大な教育問題や犯罪としてマスコミにも取り挙げられて、刑法上の科に処されることが多くなってきた。
だが当時は、こうした非人道的な子供に対する扱いは摘発されることはなかったのである。
ドライブ
継母の順子の実家である田辺一家は、飯田橋の雀荘を閉店して、西多摩郡福生町に転居していた。
そこで引き続き雀荘を開店して生計を立てていた。
その末娘の小百合は高校を卒業して、東京の東銀座にある時計メーカーに就職し福生町から都心へと通勤していた。
翻って、当時の軽自動車の運転免許書は16歳から取得することができた。
小百合は裕二が自殺未遂を図ったことを知って、裕二をできるだけ家事労働から解放して、外出する機会を作るべきだと考えていた。
そこで自動車の免許を取得して、裕二をドライブに誘える機会を作ろうと考えていた。
18歳になっていた百合子は、給料と賞与でためた僅かな貯金で、軽自動車を購入するのであった。その車種は、富士重工の<スバル360>だった。
それは玉子型をしたコンパクトな軽自動車だった(4人乗り)。
当時は軽自動車ブームがあって、各社が軽自動車の生産に傾注していた時期であった。
その種車では、鈴木自動車の<スズライト>、ダイハツの<ミゼット>、そして富士重工のスバル360で、今ではダサイと敬遠されるも黄色のナンバープレートにも人気が集まっていた。
分割で新車を購入した小百合は、姉の順子に電話を入れて裕二をドライブに誘う了承を得た。淡い気持ちで慕う小百合とのドライブと聞いて、裕二の胸の中は久しぶりに喜びが充満していた。裕二は小学4年生の夏休みを迎えていた。
国分寺町の裕二の家まで迎えに来た小百合は、半袖の白いブラウスに七分の青いパンツを身にまとっていた。
その姿を見た裕二には、眩しいほどの健康さで清純な乙女に成長していた若い義叔母に胸を躍らせた。
二人は、恋人のように運転席と助手席に座った。
車の中には、若き乙女の香しい匂いが漂っている。
二人を乗せた新車は、目的地の秋川渓谷へと疾走する。
秋川渓谷の河原近くの駐車場に車を置いて、二人は清らかな秋川の河原に足を踏み入れた。
小百合は、すぐに裕二の手を引いて秋川の岸辺へと進む。
その乙女の柔らかな手の感触に、裕二の胸はキューンと締め付けられる。
岸辺に立って、穏やかに流れる秋川の美しさに目を奪われていた。
その静寂の中、裕二はつないでいた手が放されたとたんに、小百合に思い切り抱きしめられた。小柄な少年の体は、女の柔らかな胸と腕の中におさまった。
その甘美な感触が心地よい。
そして一目がない事を確認した小百合は、その美しい顔を裕二に寄せて、新鮮な男の子の唇を奪った。裕二の全身に、電流が流れて震えるように痺れが生じた。
台東区根岸の寝床では、子守代わりにされたお休みのキスとは比べ物にならない衝撃が裕二の全身に走っていた。
裕二はされるままに口を開かされて、小百合の唇と徐々に動き出した舌を受け入れている。
その乙女の舌は、僅かに少年の舌を弄っていた。
段々と少年の息が苦悶の表情を見せた時、小百合の舌と唇は少年の口中から解き放された。
口づけときつく抱きしめた抱擁が終わった後は、小百合は黙って一言も喋らなかった。
こうしてその日は、ドライブ・インで軽食を食べるなどして、二人はつかぬ間の休日を楽しんだ。そして、夕方前には国分寺の自宅に着いた。
小百合は家には上がらないと言って、庭先に車を停車させて裕二に別れの言葉をかけた。
「裕二、いいかい二度と死ぬようなことをしてはダメよ。お姉ちゃんは、いつもお前のことを心配しているから、困ったことがあったらすぐに会いにおいで。お前の胸の中には、いつもお姉ちゃんが入っていることを忘れてはダメよ。いいね、裕二!」
「うん、お姉ちゃんありがとう」
「それと、もうお姉ちゃんじゃないのよ、今日からは小百合と呼んでもいいのよ」
「ええっ・・・呼び捨てでいいの?」
裕二は、すぐに疑問を返した。
しばらく戸惑っていたが、小百合の瞳は裕二をきつく見つめている。
「二人だけの時には、小百合と呼んでいいのよ」
「本当に小百合さん」と小声で言った。
「違うでしょ!」
「ははい、・・・・・小百合」
「よし!それでいいわ」と言うと、瞬時に裕二の唇を奪った。
そのキスは、本格的なキスで裕二の口中に舌を入れて、少年の舌を思い切り吸い込んでいた。
こうして裕二少年は、義叔母の小百合に本格的な男女のキスを体験させられた。
大菩薩峠
裕二は4年生となって、この秋には10歳になっていた。
彼の事を常にあんじていた小百合は、ハイキングに誘い出してくれた。
それは、彼女の時計会社の同僚7人~8人との日帰りの小旅行であった。
前日の夜は、福生町の小百合の実家に泊まることになった。
裕二は飛び上がるほど喜んだ。
それは幼児の頃のように、ひとつのふとんに二人で一緒に寝られるという思いがあった。
だが小百合が年頃になっていたので祖母は、二人を別々のふとんに寝かすのであった。
それでも消灯されると、小百合は隣の寝入ったばかりの裕二頬と唇に、おやすみのフレンチキスをしてくれた。
小百合は、裕二の両親にはハイキングと言って誘い出していたが、それはハイキングというよりも山登りと言った方がいいほど、小学生には過酷な山岳登山である大菩薩峠(大菩薩嶺)への登頂であった。
大菩薩峠は標高1897メートル。
山頂の大菩薩嶺は標高2057メートルもあって、日帰りでは大人も慎重にならざるを得ない険しい山登りになる。
小百合には、裕二を男らしい少年に鍛えるという意図も隠されていた。
その登山の一行は、国鉄の甲斐大和駅から下車して、バスに乗り換えて上白川峠から大菩薩峠を目指した。
小百合の同僚らは、小学生の裕二の登山を心配していたが、裕二の山登りは大人よりも快活であった。それは日頃から庭の井戸水を汲み上げて、風呂焚きをするためにガチャポンを漕ぎ、水の入った大きなバケツを裏の風呂場に運ぶというきつい運動を重ねて足腰が強くなっていたからであった。
若い男女のハイカー達は、その裕二の強靭な足腰に驚嘆するのであった。
ところが<大菩薩峠登頂>を気軽なハイキング・コースと誤解していた若者たちは、帰路で迷ってしまった。
予定では来た道を戻る予定であったが、その疲労から近道を通ることになって、かえって迷路に嵌ってしまった。
その結果、予定の走行距離を大幅に上回るとともに、予定していなかった勝沼駅に辿りつくことになってしまった。若い男女と言え、皆がその疲労に困憊するのであった。
しかしその中で裕二だけは、疲れを全く見せずに笑顔で帰還することができた。
当初裕二のひ弱さを心配していた小百合は、安心するとともに少年の意外な逞しさを知って満足するのであった。
激突から別れへ
その後松岡裕二の一家は、国分寺町から千葉県の市川市へと移転する。
米軍基地の仕事を失った庄作は、いつものように無職を決め込んで、麻雀に興じるとともに酒にも溺れていた。そのために、妻の実家からの借り入れも儘ならなかった。
そのため、止む無く松岡家の本家に助けを求めた。
本家では手切れ金を渡して勘当していたが、かつて三代目の後継者候補としていた裕二のひもじさを考慮して、金は与えないが本家の仕事を手伝わせる判断をしてくれた。
その頃の松岡本家は、装飾品、雑貨の他に事務用品関係にも触手を伸ばしていた。
そうしたことから、市川市鬼高の地に椅子の製造工場を建てて順調に商圏を拡大していた。
庄作は、その工場長として就業することになった。
その工場は、日本毛織の工場近くにあった(現在の<ニッケ・コルトンプラザ>)。
しかし、その転居や転校の様はずさんなものだった。
予定では工場に隣接する社宅に入る予定だったが、すぐに給料の現金が欲しい庄作は、同じ市川市内ではあったが、遠い北方町(ぼっけ)の一軒家を借りて引っ越ししたのである(裕二一家が住んでいた借家は今日でも残っている)。
そこは、放浪の画家の<山下画伯>が通園していた八幡学園のすぐ近くにある借家であった。
裕二は国分寺第二小学校を去って、その八幡学園のすぐ近くにある市川市立の若宮小学校に、4年生の冬季の三学期から転校した。
遠距離もあって、父の庄作はバスで工場へと通勤する。
あっという間にその後5年生になった裕二は、すぐに同市の鬼高小学校に転校する。
工場の社宅に入れることになったからである。
であるならば、国分寺からの転居や転校は、社宅の入居が確定後にすべきだった。
そういった社会的な常識や、がまんする忍耐が父の庄作にはないのである。
せっかちと言うよりも、深慮が欠けて常識が通用しない自我独尊の男だったのだ。
そういう我儘な男だから、工場長の仕事も横暴で独善的な行動をとっていた。
前任の工場長との引継ぎから始まった自我独尊の我儘な言動で、工場の幹部や工員とのトラブルを重ね続けていったのである。
工場内のトラブルは、当然のこと松岡本家の耳にも伝わる。
それでも本家では、我慢強く庄作の立ち直りを辛抱強く待った。
だが、ついにその秋に庄作は首になった。
首というよりも自ら「辞めてやる!」と、啖呵を切って離職するのだった。
既に、国分寺の自宅は他人に貸し出していて、そこに戻ることができなかった。
そのため一家は夜逃げをするように、市川市の鬼高から順子の福生町の実家へと移り去るのだった。
裕二は、またまた転校を余儀なくされた。今度は福生町立の第一小学校へと転校する。
順子の実家に居候することになった松岡一家は、庄作を除いて心苦しくて畏まった生活を余儀なくされた。ただ庄作だけは平然として、いつもの自我独尊の大きい態度で麻雀に興ずるなど、遠慮のない態度で過ごすのであった。
順子の両親は、温厚でやさしい老夫婦だった。
そんな我儘な態度を続ける庄作一家にも、慈愛の心で接してくれる。
娘の順子や孫娘は勿論のこと、血の繋がらない裕二にも温かな眼差しを向けてくれる。
但し、若くて活発な娘の小百合は、庄作の我儘な態度に一人憤慨していた。
その頃、小百合には恋人ができていた。
その日は午後から、その恋人の男性が小百合の家に遊びに来ていた。
男前のおとなしそうな青年は、小百合の両親や姉の順子にも丁寧な挨拶を交わしていた。
だが庄作は、その挨拶を無視するように皆の憩い場である居間から立ち去って、奥にある麻雀室にさっさと行ってしまったのである。
この庄作の態度に怒ったのは小百合だった。
彼女は、庄作を追いかけて猛抗議をする。
悪いのは庄作の態度であることは明白だったが、彼は謝ることができない傲慢な男である。
従って、その後の二人は大声を上げて、激しい言葉の応酬を繰り返した。
ついには、我慢できない庄作の暴力が出てしまった。
さすがの小百合も泣いてその場を去るとともに、本棟の裏にある別棟の自分の居室に逃げ帰った。
そこには恋人が待機している。
その喧嘩の様子を見ていた裕二は、呆然と立ち尽くしていた。
その心は、父への怒りと小百合を心配する気持ちが交錯していた。
裕二のその眼には涙が光っている。
田辺家の本棟に居る人々は、重く苦しい空気に包まれている。
姉の順子は、幼子の娘を抱きかかえて泣いていた。
しばらくして裕二は気を取り直して、小百合が逃げ帰った別棟の部屋へと一人向かった。
いつもやさしく接してくれる、叔母を慰めたかった。
別棟の小百合の部屋のドアをノックもせずに、外からそっと開けて部屋の中を覗き見た。
そこには、ベッドの上に上半身裸の男女がいた。
セックスをしていたかは、裕二には分からなかった。だが映画の抱擁シーンの男女の裸の姿は見たことがあった。
裕二にその裸の姿を見られても、二人は慌てる様子もなく微笑みを浮かべて裕二を見ている。
小百合はその裸体にある両の乳房を隠そうともせずに、笑顔で裕二に話しかける。
「こちらは私の恋人の〇〇さんよ」と、裕二に恋人を紹介する。
その青年も裕二に向かって「〇〇です。よろしく」と、言った。
〇〇は、その名前が聞き取れないないほどに、裕二が衝撃を受けていたからである。
それは思慕する小百合に、恋人がいたショックからであった。
小百合は、その白い肌や形の整ったこぶりの乳房を隠そうともせずに、笑顔で裕二を見つめていた。
裕二は耐えらなかった。
いずれにしてもその場に止まることはできなかった。
あの白い柔肌と乳房はあの男性のものになる。
裕二は、父と小百合の喧騒を忘れるように、今見たばかりの男性に寄り添う憧れの女性の裸体の衝撃に全身の力が抜けていた。
晴天の青空を見上げた。
すると止めなく涙が溢れ出てきた。
どれほどそこに立っていたのか分からなくなるほど、小百合を失ったショックに動揺していた。
一人で佇んでいると、小百合が心配して外へ出てきた。
そして呆然と立ちつくしている少年を、後ろから両腕で静かに抱きしめた。
次に少年の肩を押さえつつ、彼の後頭部に愛しいように頬ずりをする。
「ゴメンネ祐二、お姉ちゃんはもう大人になったのよ。結婚を許してね」
と、小さな声で囁いた。
頭の上からそのやさしい声を聴くと、少年は抱きしめられている小百合の腕を解き、彼女の正面に向き直った。
悲しみと怒りが混ざり合っていた。涙顔でもあった。
女の瞳を恨めしそうに、少年のまなこが鋭く射している。
女もその眼差しを受けて、胸に込み上げてくるものがあった。
咄嗟に少年を強く抱きしめた。
そして少年の顎を片手で上げさせると、すばやく唇を重ねた。
さらに舌をすぐに入れると、彼の舌を巻き込んで思い切り吸い込んだ。
一瞬の素早いキスだった。
その直後に、小百合は裕二との短い抱擁を解いて、自分の部屋に戻った。
祐二は、しばらく呆然と立ちつくしていた。
こうして居候の松岡一家の4人は、間もなく国分寺の自宅へと戻る。
裕二は福生の第一小学校から、国分寺の第二小学校に再び転校するのであった(同じ小学校に二度目の転校)。
それは1959年(昭和34年)の12月のことだった。
転校の挨拶はすっかり慣れてきていたが、ここでは、以前の在学時の学費が未納だと聞かされた。
当然の如くそれを請求された。祐二は驚きとともに恥ずかしさも味わった。
その後、裕二と小百合は再会することはなかった。
庄作は自分が悪いことを棚に上げて、百合子とは絶縁すると家族に宣言するのだった。
ただその5年後に、裕二が高校へ入学すると、結婚していた小百合から祝いの万年筆が小包で送達されてきた。
裕二は、お礼の電話をかけることも禁じられていた。
後日、手紙にお礼の言葉を綴るとともに、遅くなったが小百合の結婚へのお祝いの言葉も添えた。
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