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第5章 野菊の九女
1961年(昭和36年)3月。
国分寺の第二小学校を卒業した裕二は、その4月から町立の第一中学校へ入学した。
自宅の戸倉新田からは、裕二の足で徒歩30分近くもかかった。
その途中には、西武国分寺線の「恋ヶ窪駅」近くにある踏切を渡る。
なかなか学生服が購入できないため一学期の初めは登校できず、愛しい美少女の藤久美子にも会えないため、生きた屍のように裕二は落胆する日々を送っていた。
異母弟の誕生
その落胆する気持ちを、さらに暗く重くするのが異母弟の誕生であった。
異母弟は、この年の1月に生まれた継母・順子の長男になる。
当然のこと父の庄作の長男にもなる。だが、裕二もれっきとした庄作の長男である。
法律上(戸籍法)では、母体を基本としていので父親が同一人であっても母親が異なると、そこを基軸にして長男、次男、長女、次女などと戸籍上に表記される。
その異母弟の誕生の10カ月前といえば、継母の順子と裕二が交合した前年の4月のこと。
まさか、いたずらで少年を弄(もてあそ)んだことで、自分が妊娠するとは順子自身も信じたくなかった。
当然そのことはおくびにも出さずに、順子は腹の子の母親としてその誕生を楽しみにしていた。
いずれにしもその赤子は、裕二とは一回り(同じ鼠年)年下の腹違いの弟になる。
しかし、裕二の実母が庄作との離婚に応じていないため、義妹と同様に誕生した男の子も戸籍上では、私生児として順子自身の戸籍に入れられた。
そのため、順子の苛立ちは再び高まっていた。
裕二少年の童貞を意図的に奪った順子だったが、夫の庄作にその禁断の秘密を知られたくないため、その長男の誕生を心から喜ぶ態度を貫いていた。
そして、さらなる期待しない妊娠を避けるとともに、赤子の授乳などで裕二を再び弄ぶ機会もなかった。
だが、順子は二人の子供を産んだものの、引き続き庄作との婚姻が認められずに、その憤懣は高まる一方であった。
その闇の心底に眠るストレスの捌け口は、どうしても裕二に向けられてしまう。
裕二が中学校に入学したものの、まともに通学できなかった理由はここにもあった。
引き続き家事手伝いを強いられていたが、今度は生まれた赤子の子守り役が加わった。
つまり、家事労働に加えて、赤子の子守りにも追われることになってしまった。
当然のこと、級友らと遊ぶ時間もなく、宿題すらまともにやる時間がなかった。
次第に生まれた赤子のおしめ交換や、ミルクを飲ませることなども強いられた。
子守りも兼ねて乳母車に赤子を乗せて、国立町までお使いに出された。
戸倉から国立までの長い時間の往復では、顔見知りの友人達にすれ違った。
みすぼらしい恰好で、乳母車を押す姿を見られて失笑もされた。
それが女の子だった場合、一層恥ずかしい思いで顔面が熱くなった。
裕二の手足は、硬直するのであった。
その度に、男子の自分が何故に赤子の義弟の育児をやらされるのか、納得ができなかった。
再び本家を頼る
前回、千葉県市川市の鬼高町にある松岡本家が経営する工場を喧嘩で退職したものの、その後も就職せずに無職の状態が続いていた父の庄作は、順子に2人目の子供が誕生したことから、順子に強く正式の婚姻を何度も迫られていた。
事実上の妻として、自分と腹を痛めた子供たちの入籍は、女としての当然の要求である。
繰り返すことになるが、2人の子も順子自身の戸籍に私生児として同籍されている。
特に、長女の小学校入学は間近に迫っていたので、順子は必死に正式の婚姻届けを要求し続けるのであった。
そうしたことから庄作は、今度ばかりは平身低頭で本家の父と兄に頭を深々と下げて、就労を依頼するとともに、裕二の実母に支払う慰謝料のための借金を申し出るのであった。
その実家では、初めて見る庄作の平身低頭の姿勢に、父も兄も事情を参酌して止む無く承諾するのであった。
こうして、裕二の一家は国分寺の自宅を売却して、千葉県船橋市本郷町(現・西船町)にある実家が経営する工場の社員寮に引っ越しするのであった。
そこは現在の原木・松戸道路と、JR総武線の間に位置する田んぼの跡地にあった。
その社員寮では、2階が工員の独身住宅で1階は庄作一家が専有した。
裕二はようやく学生服を買ってもらえて、船橋市立の葛飾中学校に転校する。
それは、中学1年の3学期のことだった。
生まれた義弟の男子は1歳になっていた。
そして裕二は、この中学校のクラスメートの女の子に二度目の恋をする。
その相手は、この地で代々大農を営む農家の九女の末娘だった。
貧しい裕二はここでも、同情からやさしく接してくれる清純なその女の子に魅かれる。
初恋の藤久美子との切掛けとは異なり、今回の恋愛は当初から裕二が積極的にアプローチをする。
それは恋する相手の小谷野亮子(こやのりょうこ)が、どちらかと言うと引っ込み思案の恥ずかしがり屋さんだったからであった。
離婚の成立
国分寺の自宅を売却した代金と本家から借り入れした金で、父の庄作は裕二の実母に対する慰謝料を用意した。
松岡本家から委嘱された弁護士の仲介によって、裕二の実母はついに離婚調停に応じた。
夫の暴力と一方的な我が子の奪取に、女の意地を貫いていた実母は、約10年間に及ぶ離婚拒否の姿勢を崩したのだった。
その後裕二の実母は、江東区南砂町に小さなマンションを購入して一人暮らしを続ける。
こうして継母の順子とその2人の子供の戸籍は、田辺順子の独立した戸籍から、松岡庄作の戸籍へと移されたのである。
継母の順子はようやく、晴れて庄作と正式の夫婦になることができた。
義妹は6歳、義弟は1歳となり、義妹が小学校へ入学する前年のことであった。
翻って、裕二の二人の母は庄作の我儘とその横暴さに、共に艱難辛苦の女の人生を送ってきたが、それは大人としての辛苦の当事者であった。
だが、子供の裕二には何の罪もなく、大人たちによる被害者であった。
さらに、それは二人の裕二の義妹と義弟の子供にも何の罪もないことでもある。
その後は、順子の裕二への継子苛めは影を潜めるものの、その実子の成長に伴い継子の裕二に対する<差別>はむしろ鮮明になってゆく。
そうした苦悩が続く中で、裕二には新たに生きる希望を照らしてくれる運命の少女と出会うことができた。
野菊の少女
転校した船橋市の中学校は、従来からの農家の子供らと、近年引っ越してきたサラリーマン家庭の子供達で混成されていた。その中には、外国からの帰国子女もみられた。
それらの親の家庭では、子供たちの私服の違いにもよく表れていた。
農家の子供たちはどちらかと言うと、地味な服装でオシャレ感は全くなく兄姉の古着を着せられていた。そして、男の子は丸坊主頭だった。
一方、サラリーマン家庭では、親の収入差はあってもデパートや洋品店で購入されていた衣服を纏っていた。
例外的だったのは裕二で、着た切り雀の衣服で、袖の短いままのセーターなどを着ていた。
さて、同級生となって裕二と席が近い男女の生徒数人が、転校してきた裕二の社宅にすぐに遊びに来た。
転校生に対する、挨拶替わりの家庭訪問。
その社宅は建築されてから間もないこともあり、真新しさがそこかしこにあった。
農家やサラリーマンの戸建てにはない、社宅の物珍しもあったのだろう。
彼らは、私服に着替えてきた子もいたが制服姿の子もいた。
皆は背丈が低くて席が近い仲間たちで、結構楽しく他愛もないお喋りをしてから帰っていった。
その中に、おとなしくて一言も喋らない少女がいた。
小柄だが、少々肩幅があって骨太な一面も感じる。
裕二の眼には、継母の順子とタイプは違うが、似たような野性美の魅力を持っていた。
去っていく彼女の後ろ姿のスカートの下で、かすかな腰の揺れに思わず目を奪われてしまった。スカートの下に隠れている妖艶さを直感的に感じた。
この少女を恋人にしたい。この強い衝撃が新たな恋の始まりであった。
翻って、学校の教室の席は基本的に背の低い生徒が前方にある。
一方、背の高い生徒は男女ともに後方に配置されていた。
当然のこと、小柄な裕二は最前列で同じく小柄な男子と隣り合わせている。
裕二が一方的に恋する小谷野亮子は、その真後ろの席に居た。
裕二は、その女の子の全ての言動から醸し出される清純な素朴さに魅入られてしまった。
国分寺の初恋では、その華やかなマドンナにリードされるままに恋仲になっていった。
かたや亮子には、藤久美子のような華麗さやエレガンスさはない。
ただ裕二が知っている大人の女性を含めても、彼女達にはなかった清純な素朴さがあって、そこに新鮮味を感じて魅入られてしまった。
その一方で、その内奥に秘められている野性的な神秘の美しさも直感的に感じていた。
野に咲いて地味ではあるが、「野菊」の可憐な美しさをその少女にだぶらせていた。
少女の心を引き寄せる
祐二は、飾り気のない素朴な少女の亮子にますます親近感を覚える。
文房具をまともに買えない彼は、後ろの席にいる亮子に甘えて、鉛筆や消しゴムなどをちょくちょく借りていた。
彼女は何の抵抗もなく、いつも彼の要望に応えてくれる。
初恋の久美子の上から目線の華麗さとは、真逆のタイプだった。
それでも祐二は、同じように少女のやさしい母性に魅入られる。
明らかな二度目の恋心の芽生えだった。
その二度目の恋では、祐二自身がかなり意識的に亮子に纏わりついている。
下校時でも彼女の姿を見つけると、駆け寄って用事もないのに話しかけた。
他愛のない少年と少女のやり取りが続く中で、2人は次第に仲良しの友達から、異性として意識するようになる。
そして、いつしかお互いに恋心を抱く存在に発展していった。
大農の九女
小谷野亮子は女系家族で、父親が亡くなった今は長姉が婿養子を迎えて、実質的な農家の後継ぎとなっていた。
亮子は美人ではないと思われていたのか、祐二以外の異性に話かけられた事がほとんどない。この中学校は帰国子女の受け入れ校でもあって、どちらかと言うと都会的なセンスがあって、おしゃれでスタイルの良い女の子が男子にもてていた。
そもそも亮子は無口で、一途な内向的な性格であった。
恥ずかしがり屋なので話しかけると、いつも下に顔を背けてはにかむ。
その照れ屋の笑顔が可愛い。
祐二は、地味だが素朴で可憐な亮子にますます魅かれていった。
彼だけは何と言われようが、亮子は美しい少女だと信じている。
亮子は色白でオデコが広く、目は奥二重で目元が窪んでいる。
そこは外国人のように彫りが深い。
顔全体と目鼻立ちのバランスも、まあまあとれている。
体躯は中肉中背で痩せてはいない。太ってはいないが骨太で肩幅が広い。
それが農家育ちと言うこともあって、中学生の男子にとっては洗練された美しさには見えなかったようだ。
ただ祐二は、若き叔母の小百合、継母の順子や初恋の久美子にはない、無垢でナチュラルな魅力を奥に秘めていると胸をときめかすのだった。
まだ磨かれてはいないが、内面に美しさを秘めた原石のような気がする。
幼く澄んだ瞳の中には、直向きで一途な思いを秘める女の情念すら感じる。
その野菊に似た素朴な亮子に対して、男として強い独占欲を抱くようになっていく。
一方、亮子は異性に関しては奥手で、これまで特に異性に胸を焦がすようなことはなかった。ただ裕二がそば近くの席になって、何かと自分に纏わりつく彼が可愛いと思うようになっていた。
彼が休むと、学校にいるのがつまらない。
自宅に戻っても寂しくて空虚な感じ。
祐二の声や仕草がいつも脳裏に残っている。
他の男子には感じなかった母性愛が沸々と渦巻いていた。
朝起きると、祐二のニヒルな笑顔が浮かんでくる。
そこから、彼女の一日が始まるようになっていた。
馬蹄(ばてい)
祐二は、中学校で陸上部の長距離走グループに所属した。
小学校での長距離走に、自信を持ったからだった。
千葉県では、当時は中学生による「野田駅伝」があって、各陸上部の長距離グループはその大会を目指して、猛練習に明け暮れる毎日を送っていた。
ただ入部したものの、裕二は部活にはあまり参加できなかった。
炊事や風呂焚きなどの家事手伝いはなくなってきたが、清掃と妹と弟の面倒を見るように命じられていたからだ。
引っ越した本郷町には、酒屋、八百屋、揚げ物などが近所にあって買い物は順子が担当していた。
さらに近くには公衆浴場(銭湯)があって、家に風呂場がないことから風呂焚きの必要性もなくなっていた。
つまり両親の都合次第で、裕二は部活に参加することができるのだった。
それでも貧乏所帯だったので、競走用の長パンツ(トレパン)や短バンを買うことはできなかった。
陸上部の練習メニューは、主にロードランニングだった。
コースは、中学校から中山競馬場近辺を一周する。
春の開催が終わった競馬場は、閑散としている。
現在のように、他場の場外馬券の販売はまだ実施されていなかった。
シゴキの鬼の先輩たちが、卒業間近で公式行事のために誰も参加できない日があった。
祐二らの後輩達は、和やかな雰囲気でロード練習のため学校を出発した。
正門を抜け、西船橋から行田方面に延びる一般道に飛び出した。
すると、もうワイワイ、ガヤガヤ、遠足気分のランニングになっていた。
やがて進行方向の右の方向に、一帯の森よりも高くそびえる進駐軍の無線塔(旧海軍の無線電信所・船橋送信所)が現れる。
この辺りは、今では武蔵野線の高架が敷設されているが、当時はススキの野原が続く広大な場所だった。そこを走り抜けると木下(きおろし)街道に出る。
これを左折して、中山競馬場の正門近くの北方十字路をさらに左折する。
すると、現在の原木松戸道路に入る。
さらに京成電鉄の陸橋の手前付近で左折して、学校に戻るというコースを走る。
しかし、その日はススキの野原に入ると、みんなは競馬場の裏手方向に走った。
当日は開催日ではないので、誰かが競馬場で練習をしようと提案したのだ。
その練習は建前で、本音は競馬場で遊ぼうということで、みんなの気持ちは一致していた。
当時の競馬場は、非開催日にはセキュリティが厳重ではなく、関係者に咎められることもなく場内に入ることができた。
彼らは幼稚園児のようにはしゃいで、ダートコースに飛び込み走った。
けれどもその動作は、ものの1分も続かなかった。
馬が走るダートは深く、足を踏み入れると地面は底なし沼のようにその足が潜り込む。
そして、その足を引き抜くことは容易ではなかった。
みんなは、砂の深さと重さに驚き思わず悲鳴をあげた。
その時、祐二の足は砂の中に異物を感じた。
埋もれていたのは、1個の『馬蹄(ばてい)』だった。
彼はその馬蹄を誰にも悟られぬように、そっとトレパンのポケットにしまい込んだ。
やがてみんなは、予測もしなかった足場の悪さに悪戦苦闘しながらも「いい練習ができた」と言い合って、楽しそうに競馬場を後にした。
その後、京成線の陸橋の手前付近で今の原木松戸道路を左折して、坂道を下ると一本の大きなけやきの木にぶつかる。
そのけや木の裏には「葛羅の井」と呼ばれる古井戸がある。
右折すれば中学校だったが、裕二は独り黙って左折する。
『新オケラ街道』と呼ばれている競馬場に通ずる裏通りに出た。
そして、小走りで一軒の大きな農家の庭先に駆け込んだ。
その農家は、彼が密かに淡い恋心を抱いている小谷野亮子の家だった。
拾った馬蹄を亮子にあげるという口実で、彼女に一目会おうという算段であった。
ちょうど亮子は、庭の井戸端の洗い場で髪を洗っていた。
傍らには、彼女の母親がタオルを持って立っていた。
亮子の長い黒髪が水に濡れ、すくうと髪が生き物のように動いた。
それは艶かしく官能的で、普段は清楚な少女であった亮子が大人の女性に思えた。
突然の訪問にもかかわらず、亮子も母親も大して驚くことなく、笑顔で祐二を迎えてくれた。彼は、特別に歓迎されたように思い嬉しかった。
そして、馬蹄を亮子に手渡すと、すぐにきびすを返して学校のグランドへと駆け戻った。
大農の家
例年よりも早く桜が咲き乱れる季節に入った春でも、朝晩は早春のようにまだ肌寒い。
それでも日中は、まだたよりない陽光の中に、時折のそよ風が頬を流れて心地が良い。
いつのまにか仲良しになっていた頃、後ろの席に居る小谷野亮子から誘いがあった。
「・・・私の家に来てくれる?」
「ええっ!いいの、まずくない?」
「毎日学校ばかりだから、たまには私の家に来て気分転換しましょう」
「でも、仲良しと言うことを知られてしまうよ・・・」、
「私、もう松岡君のことが好きすぎて、それを隠すことが辛くなってきた。裕二のことを家族に話しておきたいの、勿論いきなり彼氏なんて言わないわ、あくまでも同級生のボーイフレンドとして紹介したいのよ、いいでしょう?」
「もちろん僕は構わないし嬉しいよ、君に従うよ」
初めての口づけ
船橋市の街並みはすっかり春に馴染んで、もうソメイヨシノの花びらもちらちらとそよ風に飛んで、その姿を早春の道端に散らしていた。
亮子は裕二がやつてくる日の朝、母親に「クラスメートの松岡君が遊びに来るの」と、告げていた。
晴天のその日の午後。
裕二が亮子の家の前に佇むと、まるで時代劇に出てくるような大きな木の門がそびえ立っていた。
その門の横にある木戸口を潜ると、広い庭があった。
遠くに見える奥のガレージには高級な乗用車とともに、白い軽トラック2台が駐車していた。
右側にはトラクターや稲刈り機などの農機具が収まっている大きな物置小屋があった。
左側の母屋は、古城ではないかと見間違うような、瓦屋根の雄大な日本建築がそびえ立っている。
その広い庭の玄関前で、母親と亮子が揃って裕二を迎えに出ていた。
ゆっくり歩を進めながら、裕二は腰を小さく屈めて頭を下げつつ二人に近づいた。
愛想笑いを浮かべながら「お邪魔します。」と、一礼して二人の前で立ち止まった。
末娘の異性の友人の訪問にもかかわらず、年老いた母親は大して驚くことなく普段通りの穏やかな笑顔で、娘の級友の訪問を受け入れてくれた。
裕二は、歓迎されているように思い、胸を撫でおろした。
「さあ中に入って頂戴、居間でお茶でも入れるから、その後は二人でゆっくりしなさいね」と言われた。
裕二はうれしさを押さえながら、小さな笑顔を作って「うちは貧乏でこずかいが少ないのですが・・・これをどうぞ」と言って、もぞもぞと学生服のポケットからクッキーの小箱を母親に手渡した。
母親は笑顔でそれを受け取ると、
「まあ、ありがとうね。気を遣わしてしまったわねえ」
と、さり気なく受け取ってくれた。
3人は大きな玄関に入り、艶々に磨かれた広い廊下を渡り、大農家の居間に入って行った。
その部屋の中央には、檜の巨木で作られた日光彫の大きな和風のローテーブルと、座卓が4個ほど置かれている。
縁側にある廊下側に座った。
すると、母親と亮子が一旦部屋から消えた。
しばらく待たされたが、亮子がお茶をお盆にのせて再び現われて3つの茶碗をテーブルの上に置いた。
続いて母親が戻ると、座りざまに「今日は勉強なのね、お茶を飲んだら2階のこの子の部屋を使いなさい。外ばかり出ているとインフルエンザに感染するから、家にいるのが一番安心よね」と、裕二の顔を正視しながら言う。
裕二は、最近の亮子の下校が遅いのは自分と密会だと見破られていると感じて、動揺を隠せなかった。
その後に、母親自身はお茶を飲むこともなく家の奥へと消えた。
二人は顔を見合わせて笑顔を作った。
すぐにお茶を飲み干して、二人は2階にある亮子の部屋に向かった。
濃厚なキス
入室すると二人は、すぐさま抱き合って初めての口づけを交わす。
二人の初キスとは言え、そのキスは濃厚で長く続いた。
大人の口づけのように、裕二が主導するデイープな口づけだった。
裕二にリードされて、亮子は陶酔しながら純愛の口づけを続ける。
やがて、苦しくなった亮子は唇を放す。
ハァハァと、荒い呼吸とともにその両の肩を震わせた。
その後の二人は勉強することもなく、手をとりあい抱き合って時をすぎるのを忘れてベッドの上でいちゃついた。
その後二人は、肩を寄せ合い激しい抱擁に次第に放心状態となっていった。
どの位の時間が過ぎたのか分からないほど、二人は愛の確認に陶酔するのであった。
するとどういう訳か、急に亮子は、
「シャワーを浴びてくるから待っていてね」
と、言い残して、1階にある浴室へと向かった。
裕二はベッドに座り込んだまま、彼女が戻るのを待った。
静寂の中、部屋には西陽(にしび)が差し込んでいた。
しばらくすると頭に小ぶりのバスタオルを乗せて、髪を拭きながら亮子が戻ってきた。
裕二の眼の前で、その肉体を見せつけるように私服から学生服に着替える。
裕二は初めて、若い年頃の娘が着替える姿をまざまざと見せつけられた。
彼女の下着姿は、中学生にしては肉感的で色気があった。
裕二は、亮子が大人の女性のように見えた。
事実ではないが、裕二は愛の口づけで、急に亮子が大人の女に変身したと思い込んだ。
秘密の洞穴
亮子は家の人に断ることもなく、中学生のお出かけ姿でもある制服を着込み、裕二の手を引いて黙って家を後にする。
二人は静かに門を出た。
裕二は「どこに行くの?」と尋ねた。
彼女は、頭にタオルを乗せたまま顔を横に振って、
「・・・何も考えていない」と言った。
裕二は驚いた。彼女が情緒不安定なままに、行動を起こしているのかと思った。
しばらく二人は黙って歩いていたが、裕二が意を強くして疑問の口を開いた。
すると、亮子は「ついて来て!」と、少し命令調に言い放った。
そして引き続き速足で歩き始めた。その後を裕二が小走りで追った。
二人は、家の裏手に広がる畑へと通じる奥の細道に入った。
この辺りは、遠い昔に葛飾川から水を引いた堰(せき)や小川が残る低湿地帯。
すでに田んぼはなくなって、畑地になっている。
それでも今でも水気が多く、それほど畑での耕作はされていなかった。
人一人通れるほどの、古くからの<あぜ道>が続いている。
道は、いつもぬかるんでいる。
亮子は生渇きの髪をタオルで拭きながら、足元を気遣いながら歩を進めた。
裕二が後ろから「寒くない?頭冷たいだろう」と、声をかけた。
「大丈夫よ、いつものことだから」
と、強がりを言って、頭の上にあるタオルを動かす。
頭に手を置いているので、歩くにはバランスが悪いらしい。
裕二は後ろから手を伸ばし洗い髪の甘い香りを感じながら、彼女の片手を握って引っ張り、攻守交替して先頭に立った。
異母妹や継母の手とは違う、少女の柔らかな感触が手先から心臓まで痺れるように伝わってくる。
再び高まる心臓の鼓動を抑えながら、ゆっくりと歩を進めた。
しばらく進むと、湿地の跡地の畑のよりも高台にある中学校の裏手から続く崖の下にぶつかった。
道が、途絶えたそこには木立がある。
その奥の木立の中には、隠れるように小さな洞穴がある。
この場所は中学校のグラウンドに近く、そのグランドからは藪を通り抜けた場所にあった。部活動で疲れた中学生がサボって、密かに休む秘密の場所にもなっていた。
学校の授業がない日には、この洞穴に来る者はまずいない。
二人はその前にある木陰に座って、夕暮れが迫りつつある静かな畑の跡地を眺めていた。
すると裕二は、素早く亮子に近づき彼女の頭の上のタオルを払った。
そのタオルを握ったまま、彼女の額にゆっくりと顔を近づけて唇を触れさせた。
亮子は、目を大きく開いてなすがままに受け止めた。
すぐに二人の顔は離れた。
二人は静かに見つめ合っている。
次に裕二は、彼女の広い額に湿って流れる前髪を見届けると、それを左手の指でかきあげる。
亮子の瞳は、彼の顔を強く凝視している。
再び顔を近づけると、今度は彼女の右頬に唇を押し付けた。
少し長い触れ合いだった。少女の甘い髪と柔肌の匂いが鼻をつく。
そして、彼女のタオルをズボンの後ろポケットに仕舞った。
その後、思い切り両腕を広げて亮子の両肩を抱いた。
頬が触れ合う。少女の髪と柔肌の甘い香りが漂う。
二人は緊張に、体が硬直して動けなかった。
さらに長い抱擁が続く。それ故に、次の行動に迷いが生じていた。
それでも若い男の体に、次第に込み上げてくる欲情は止まることを知らない。
その男の炎にかられてしまった裕二は、彼女を立たせると手を強く引っ張って洞穴へと向かった。
洞穴の中は薄暗い。
裕二は、「好きだよ」と小声で言った。亮子は相変わらず無言。
彼女は、次の彼の行動を待っている。
裕二は次の行動を起こした。
彼は乱暴に彼女を押し倒し、組み伏せて覆いかぶさった。
そして女の胸元を開いて、女の新鮮で柔らかな乳房にかぶりついた。
亮子は初めての異性による乳房への吸い付きに驚くものの、その快感に全身がとろけ出していた。
亮子はここで、裕二に一気に射止めてもらいたかった。
だが裕二は、この場所で愛しい亮子を完全制服することを断念してしまう。
それはこの洞穴があまりにも清潔でなかったことと、亮子の自宅のすぐ裏手にあって、既に両隣の農家の人達の目に触れていたリスクもあったからだった。
この場所に裕二を誘ったのは、亮子の蠢動(しゅんどう)からだった。
そしてむしろこの亮子の女としての思いの丈を知って、裕二は安堵するとともに亮子はすでに俺のものになっている、と自信を持つのであった。
痩せどうかんの悪さ
この洞穴のある場所は、古くから言い伝えられている民話の『ねがら道』にあたる。
このねがら道には『やせどうかん』というキツネが洞穴に住んでいて、その昔にそこを通りかかる旅人に悪さを働くと言い伝えられていた。
その昔話によると、ある日この地である『印内』に住む爺様が船橋の宿場に出かけ、用を済ませておみやげを買って帰る。
その途中でねがら道にさしかかった。
すると道端に大勢の人々が集まって、「丁だ」「半だ」と大声をあげて博打をしている。
「さては、これは『やせどうかん』の悪企みか、騙されるものか」と、爺様はその様子を隠れて見ていた。
しかし、根が賭け事好きの爺様はいつのまにか我を忘れて、夢中でその輪の中に入って行ってしまった。
やがて夜が明けると、いつ間にやら博打をうっていた人々は消え、目が覚めた爺様のおみやげと金は消えていた。
思春期を生きようとする若い二人には、知るよしもない昔話ではあった。
それは人間の強欲への戒めを伝えるとともに、複数のフィクションの顔を持つ女狐の化け物が存在する昔話である。
今その場所で愛し合う二人は、共にその愛を強く確認できた。
そして二人の胸中には幼いながらも、将来はいずれ結婚したいことを心の中に確認していた。
この昔話を知らない二人ではあったが、大切な思春期の愛を心の中に誓い合う思い出の場所となった。
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