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第8章 独りぼっちの上京
祐二と亮子との、思春期における相思相愛の恋は本格的に始まった。
この頃、彼らは就職か、高校進学かの決断を迫られていた。
家庭が裕福でなかったこともあり、小柄ながら耐久力や脚力に自信のあった彼は、漠然と競馬の騎手になりたい、と考えていた。
しかし、担任の先生は祐二の就職希望については否定的であった。
教師は高校受験を薦めた。
ただ、彼はそれが容易に許されない家庭の事情との狭間で、思い悩む日が続いた。
ところが、最終的には月謝の安い公立高校という条件付きで、親も進学を認めてくれた。そのため、俄かにミカン箱の机に向かって、受験勉強に励むことになった。
後に知ったことだが、当時、偶然にも松岡本家の商家の創始者だった祖父が急死して、父の庄作は兄弟とともに、その遺産を手にした直後であったのだ。
遺産が入ったことで、庄作は実家に戻っている妻子を帰宅するように説得した。
しばらくすると、順子と二人の子供も戻ってきた。
妹は、葛飾中学の隣にある葛飾小学校に4月から通学するとともに、幼い弟は保育園に通うにことになった。裕二は、その弟の手を引いてその送迎を担当させられた。
昭和30年代の日本
1960年(昭和35年)から1964年(昭和39年)の我が国は「所得倍増計画」が発せられるとともに、「農業基本法」が発布されるなど経済復興の大号令が現実味を帯びてきた時代であった。
さらに、資本の自由化が促進され、GNP(国民生産)は世界第2位に躍進する発展を示す。
まさに「高度経済成長」が、進みつつある時期であった。
しかし、その陰では大気汚染などの公害も起こっていた。
他方、ビートルズが来日し、若者のグループサウンズが台頭するなど、戦前とは異なる新しい音楽や欧米文化の波が寄せていた。
テレビでは「おはなはん」や「巨人の星」などの庶民的な番組がヒットし、『巨人・大鵬・卵焼き』の言葉が大流行していた。
翻って、こうした経済成長の中では就労の意思があれば、老若男女を問わず仕事に就けないことはなかった。
「金のたまご」と、言われていた集団就職者が都会に進出してきたのもこの頃のこと。
だが、傲慢で怠け者の松岡庄作は、こうした時勢の流れには乗れず、定職に就くことさえできなかった。
これまでは実家の家業を頼るとともに、手先の器用さを生かして宝石の研磨を自宅で行う、あるいは陶器製作の講師をするなどするも、どの職業も長続きはしなかったのである。
ところが遺産が入ったことから、懲りずに庄作は再び自ら会社を興し、遺産の多くはその資金に回されるのだった。
そのため裕二の松岡一家は、相変わらずの貧乏生活が続いていた。
満足に食事もとれない日々が散発していたのだ。
そうした中で、祐二は、ますます亮子との恋愛だけが生き甲斐になっていた。
そういった家庭の事情を察してか、放課後になると亮子が駆け寄って来て、食べ物を差し入れてくれた。
また、文房具や学習ドリルを買えないでいると、買って与えてくれた。
彼女の母性溢れるやさしさに、折れそうになる心を救われていたのである。
折檻で外に放り出されると、夜空に散りばめられた星の谷間に、亮子の微笑む顔が浮かんでくる。
亮子との心の絆が裕二の生きる希望の星だった。
別れのキス
中学生活もあと僅かになった、土曜の晴れた日のことだった。
学校の校庭は、前夜に降った大雪に一面の銀世界が広がっていた。
放課後、雪合戦をやることになった。
男子の中には意中の女子に雪玉をぶつけようとする者も多く、女子はキャーキャーと言って逃げ回る。
当然、祐二は手加減をしながら、雪玉を作っては亮子を追いかけていた。
亮子も雪玉が当たると大げさな声をあげ、時折いたずらっぽい笑顔を返しながら、相好を崩してはしゃいでいた。
そのうち亮子は、校舎の裏側に向かって逃げ出した。
彼女を追いかけて行くと、北に面した校舎の裏側に出た。
そこは直接陽が当たらず、ひんやりとした空気が頬を刺す。
彼女は校舎の壁に寄りかかり、立ち止っていた。
亮子に近づいた祐二は「みぃーつけた」と言いながら、雪玉を投げようと右腕を上げかけた。
その瞬間、彼女は体を反転させ、背中を祐二の方に向けた。
彼は、思わず投げかけた雪玉を落とした。
静けさの中に沈黙した二人の吐く息が、微かに周囲の冷気を揺らしていた。
祐二はにじり寄った。
それを察知したように、彼女は再び体を彼の方に向けた。
祐二は、だらりと下げた亮子の両手を握った。
温かい感触が直に伝わってきた。
その姿勢で祐二は、彼女の体に自分の体を重ねた。
少年の胸が少女の胸のふくらみを押さえ、唇を重ね合わせた。
体育祭の日以来のキスだった。
少年の手は少女の手を離れ、校舎の壁に寄りかかる少女の背中に回った。
少年は唇を合わせたまま、少女を強く抱きしめた。
呻き声がもれた。
いつの間にか、少女の舌が少年の口の中を這っていた。
少年は一瞬たじろいだが、すぐに甘露の媚薬に酔っていった。
少女の舌は、蛇のように少年の舌に絡みついた。
長く激しいディープ・キスだった。
強く激しい口吸いに二人は酔った。
この時間が永遠に続けばと願った。
しかし、それは悲しい別れのキスになってしまった。
亮子の悲劇
二人の別れの序曲は、公立高校の合格発表から始まった。
祐二と亮子は、同じ公立高校を受験した。
二人の学力はほぼ同レベルだったが、彼女は不運にも不合格になってしまった。
それは、同じ高校を受験した級友達がみんな合格したにもかかわらず、亮子だけが落ちてしまったWの悲劇だった。
亮子は傷ついた。
祐二は、自分の合格を喜べなかった。
自分が騎手の道を選択していれば、彼女は合格して入学できたかもしれないと、複雑な後悔の念に襲われた。
祐二が受験できるようにと暖かく励ましてくれ、参考書や文房具まで支援してくれたのは、他らない亮子なのだ。
その彼女一人が、不合格の憂き目にあってしまった。
合格発表の日から亮子は、祐二だけではなく、級友達とも距離を置くようになっていった。
彼は何度も励まそうとした。
そして、自分の変わらない愛の気持ちを伝えようとする。
だが彼女の悲しみにうち沈む姿が、その行動を制止していた。
祐二は、悲しみ泣いている亮子を抱きしめたいと心から願った。
しかし、彼女は愛する男の視線すら避けて、孤独の暗夜をさ迷うばかりだった。
とうとう卒業式がやってきた。
だが、そこには小谷野亮子の姿はなかった。
そして桜の花咲く頃、祐二は失意のうちに高校への進学が始まった。
市立の高校への通学後、しばらくして国鉄・西船橋駅で会った旧友が、亮子は習志野市にある私立の女学校に入ったと教えてくれた。
内心安堵したが、どうしたら亮子に会えるのかと思案に悩んだ。
手紙を出すか、家を訪ねるしか連絡をする方法はなかった。
だが、気弱で相手の心を大事にする祐二は躊躇した。
まだ、彼女の心の傷は癒えていないはずだ。
もう少し癒される時間が必要だ、と自重してしまった。
二度目の一家離散
ところが、今度は祐二の身にも、不幸な出来事が起こってしまった。
父は祖父の遺産を元手に会社を興していたものの、半年もたたずにその会社は倒産してしまった。
家計の窮状は深刻さを増し、再び、家庭崩壊の危機が迫っていた。
ついにその家庭の経済事情から、祐二は都立高校の夜間部に編入する話を父から聞かされた。
同時に東京に出て、住み込みで働くように強制されるのだった。
つまり、体(てい)の良い家からの追い出しだった。
その結果、松岡家を出て1人で生きて行くことを余儀なくされる。
船橋の市立高校入学後、半年も経たない夏休みが始まる頃だった。
東京に行ってしまえば、亮子とはますます会えなくなる。
また、どうせ働くなら騎手になりたいとの思いも心底に残っていた。
切なかった。
自分の進路すら、自由にならないことに対する怒りもこみ上げていた。
東京行きを告げられた翌日の放課後、祐二は自宅に帰らず、独り中山競馬場に向かう道を歩いていた。
亮子に人目会いたかった。
彼女は、まだ帰宅していないかもしれない。
新オケラ街道の小谷野家の前に立った。
しかし、入る勇気はなかった。
しばらく立ち尽くした後、足は無意識に厩舎のある市川市の若宮町へと向かっていた。
ここは中山競馬場と一体化しているが、厩舎は市川市の若宮町になり、厩務員や騎手の自宅もその近辺に多くあった。
ただダートコースなどの馬場は、船橋市の古作町になっていた。
その後に、厩舎が茨木県美浦村に移った跡地には、競馬場の施設が大規模に新築され、現在のJRAの中山競馬場の敷地は、それでも旧態然として船橋市古作町と市川市若宮町に跨っている。
その施設の多くは船橋市であり、当市に億単位の税金がJRA中山競馬場から船橋市に支払われている。
もしかしたら、騎手への扉が開かれるかもしれない。
そんな独りよがりの淡い期待を抱きながらただ歩いていた。
だが騎手への門を叩く術を知らなかった。
当時は競馬学校もなかった。
夢遊病者のように、けやき並木の馬道を歩いていた。
並木を抜けると、丘陵地帯に連なる畑地に出た。
そこには、畑ばかりの田園風景が広がっていた。
しばらく歩いて、もう一度若宮町へ戻ろうとしたとき、遠く西の方向にそびえる法華経寺の森の上に、真っ赤な夕陽が輝いて見えた。
畑の向こうの地平線に浮かぶ美しいその夕陽は、少年の暗い気持ちに燃えるような感動を呼び起こしていた。
この美しい景色に心を揺さぶられた祐二は、何故か東京へ働きに行こうと決心がついた。
いつの日か、必ずやこの地に舞い戻り、この夕陽を亮子とともに見よう。
それは亮子と結婚したいという、願いとその強い決意でもあった。
夕陽を見つめる眼に、自然と涙が流れた。
その涙は、適わぬ願いの行く末を予感しての、惜別の一雫であったのかも知れない。
その直後、祐二の家族は再び一家離散した。
彼は亮子とも会うこともできず、精神的にも経済的にも独力で生きることを強いられた。愛しい亮子にこの特異な事情を伝える時も機会もなく、彼はこの地を去った。
社会的に苦労のない亮子には、この特異で急激な環境変化は、すぐには理解できないとも考えていた。
受験の失敗で苦しみを引きずり、心の痛手を背負っている彼女に、落ちぶれていく自分の姿を見せることは、さらに大きく精神的な負担を与えると思った。
いつか自分の新生活に落ち着きができたら、再会してそこで事情を説明しようと、一時的な別れの言葉も伝えられずに船橋の地を去るのであった。
翻って、市川市若宮町にあった厩舎、調教師と騎手の住まいなどの多くは、1977年(昭和53年)に茨木県稲敷郡の美浦村へ移転している。
裕二の中学校の同級生も、厩務員一家として船橋市から美浦村にあるトレーニングセンターへと移住している。
その昔に騎手、調教師、厩務員などの生活の場であった若宮商店街は今も残っているが、今は当時の賑わいがなくなっている。
また競馬学校が設立されたのは、1982年(昭和57年)のことで、周知のように千葉県臼井にある。
騎手候補者は公募であり、2度の試験があって身体検査、体力測定、学科試験、面接などがある。
合格すれば3年間合宿して学ぶが、卒業するには騎手免許に合格する必要性がある。
試験資格は、小学6年生又中学生となっており、また入学金や会費は必要がない。
もしも当時、競馬学校があったならば、裕二は間違いなく騎手への道を目指して競馬学校へ入門していただろう。
学校には、騎手課程の他に厩務員課程もある。
貧しい家庭の裕二が生きていくには、適した騎手への道だったともいえる。
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