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「アスハ。…あれ」
「うん」
崖の縁に立っている木の杭。そこから下に向けてロープか紐のようなものが張り渡されている。
せかせかと足早に近づいて確認すると、杭は点々と崖下に向けて並んで刺さっていた。金具のリングが付けられていて、そこに下までぐるっと輪っかになったロープが通されている。そして、木々の梢の間からかなりの水量がありそうな水音が絶えず聴こえてきていた。
「多分、これを使って下から水を汲み上げるんじゃないか。それでそこの、木の箱の中に溜め込んでから中に運び入れる」
言われて振り向くと、建物の軒下に車輪のついた大きな木箱が置かれてる。わざわざこのために作ったのかどうかはわからないが、見たところなかなかしっかりした造りのようだ。
そっちに行って触ると、表面がちゃんと磨いてあってつるつるしてる。確かにこれなら水入れても大丈夫そうだな。と撫で回してると、わたしが目を離してる間に崖下にさっさと降りていったアスハがそこから大事出して呼びかけてきた。
「…バケツがあった!これで汲むから。…綱揺らしたら、上から引っ張って…」
上から覗き込んでも木の枝に邪魔されて細かい状況までは見えない。けど、渓流の縁で何やら動き回ってるアスハの姿は切れ切れに見てとれる。
やがてロープがぐんぐん、と揺れたので上から輪になったそれを恐るおそる引っ張ると。フックにかけられた金属製のバケツがこっちにゆっくりと少しずつ上がってきた。水が入ってるらしく、かなり重い。
なるべく中身をこぼさないよう慎重にフックからそれを外し、ざあっと木箱に空ける。これを風呂が沸かせるくらい繰り返すのはなかなか大変そうだ。
「どうだろう、これ?もしかして上の方が大変かも。持ち場入れ替わる?」
下からアスハが心配そうに尋ねてきた。わたしはちょっと考え、首を横に振った。
「うーん…。とりあえずはしばらくこのままでいいや。途中で疲れたら交替しよ」
多分、この調子だと何十回も往復しないと充分な量の水が貯まらないと思う。だからどっちも単調な作業に疲れたタイミングで入れ替わった方が目先が変わって少しは捗るかも。
それからわたしたちは、今夜たっぷりのお湯を張ったお風呂に入れる!って希望を胸に抱き、ひたすらせっせと何十杯もの水を汲み上げ続けた。
木箱がいっぱいになったところで一回彼が下から上がってきて、二人一緒にがらがらと水の入った箱を押して勝手口まで運ぶ。そこからまたバケツリレーで浴槽に水を貯め込み、空になった木箱を引いて元の場所へ戻った。
上下の担当を入れ替わり協力してもうワンセット。二杯目の水は全部浴槽へは移さず、調理や飲み水に使おう。ってことになり、残りの水を張ったまま勝手口に置いておくことになった。
建物の外に風呂の薪を焚べる釜があって、そこに薪がいくらか積んであった。前にここで入浴や炊事をした人物は、どうやらしばらくの間この建物に滞在していたようにも見える。
「快適に暮らすために結構な手間をかけてるよね、前の人。おかげで後から来るわたしたちみたいな旅の人間が助かるけど…」
バケツで水汲んでるときに何匹か上手い具合に魚が入ってきたので、それをそのまま泳がせてる汲み置きの残りを覗き込みながらわたしは呟いた。
もちろんこの水を炊事や飲み水に使うためには一旦しっかり沸かさないといけない。魚は塩振って焼いて、余った分は捌いて干してもいいかな。とか考えてると、アスハが焚き付けを採ってこよう。と言って立ち上がり、再び裏の崖の方へと向かった。
「この感じだと、俺たちの直前にここ使ったやつかどうかはともかく。もともと定住してた人たちがいて、その人らがここを住みやすく改造したってことかな。せっかくいろいろと工夫してここまでにしたのに、どうして出ていかなきゃいけなかったのか。そこまではもちろんわからないけど…」
二人で枯葉や枯れ枝、下草を集めて持ってきてかまどに入れた薪の上に広げて置いてその上で火打石でかちかちとやる。一応使えなくなった古いライター(百円ライター、というらしい。高いのか安いのか今いち感覚が飲み込めない)も一個もらってはきたけど。問題は入れるオイルがないってことなんだよなぁ。
とはいえ都会に行けばまだライターのオイルはそこそこ手に入ることがあるらしい。だからチャンスがあったら補充しておきなさい、と言われて母から渡された。しかしここではまだそんなものどこにもないから、とりあえず原始的な火の興し方を選択するより他ない。
すっかり乾いた焚き付けの上で火花を頑張って何度も散らし、やっと点いた小さな炎を手で覆って息をそっと吹きつける。燃えやすい小枝や葉っぱをそこに被せて何とか風呂釜に火を点すのに成功した。
炎がぱちぱち、と音を立てて燃え上がるのを見届けてわたしたちはふぅ。とやっと肩の力を抜いてひと息ついた。ここまで漕ぎつけるのも一苦労だ。
まあ、家で風呂を沸かしたり炊事をするのももともそれなりに大変だから。火興しくらいは特にどうってことない。
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