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暖炉の前には、少し距離をおいて、一人がけ用のソファーが二つ並んでいる。
その片方に、生気のない灰色の瞳をした娘が座っていた。彼女の左腕は、ひじから先が欠損していた。
娘がすることといえば、目の前の揺らぐ火を、ぼうっと見つめるか、窓の外で、しんしんと降り積もる雪景色に目をくれることくらいである。
「ほぅ……」
今日何度目かもわからないため息が、血色の悪い乾燥した唇のすき間からこぼれ出た。室内の空気もつられて、重く沈んでいく気がした。
せっかく淹れてもらったお茶も、すっかり冷めてしまっている。
少し距離をおいてもう一方のソファーに座る男性医師は、ほとほと困り果てた様子だ。
娘の心の療養を任されたとはいえ、彼女が心を固く閉ざしていては何も始まらない。こちらが、どれだけ接触を試みても、彼女は石のようにうんともすんとも言わないのだ。
──本日も成果なし……
壁かけの振り子時計で時刻を確認し、医師が診療を終えようとしたそのときだった。
「私は、彼女を……愛していた……」
消え入りそうな細い声だった。
面談を開始して半年の今日、隻腕の娘が、長らく閉ざしたままだった口をようやく開いてくれた。彼女の声を初めて聞いた。
医師は、浮かしかけた腰を再びソファーに戻した。
「けど、死んだ……」
静まり返った室内に、徐々に荒くなる彼女の息遣いが聞こえてくる。
「私が……この手で、殺した……っ!」
のどの奥から絞り出された掠れ声には、さまざまな感情が感じ取れる。怒り、後悔、嘆き……そのどれをとっても、まだ若い娘の内面に押し止めておくには重荷すぎた。
「確かに、僕の手もとにある資料の記載とおりなら、君は、護衛として仕えていた主を誘拐したのち、殺害した……ということになる……。
それは、懺悔と捉えても良いのかな、ユリア?」
ユリアと呼ばれた隻腕の娘は、残された右手で、色白い痩せこけた自分の顔をくしゃくしゃに撫でまわす。
「わからない……」
涙をぬぐっているのだ。鼻水をすする音もした。
医師は懐からハンカチを差し出したが、彼女は受け取らない。
「私が死にたいと言ったら、お前は、私を殺してくれるか?」
精神を病み、極度に悲観的になった患者が、自らの死を望むことは、往々にしてあることだ。だから医師は、驚くことも、急いて感情論に訴えることもない。
「残念だが、それは僕の業務内容に含まれていないよ」
医師は、そこで会話の流れを断ち切った。彼女の心を蝕む原因から、少し距離を置く必要があると判断した。
「酷い天気だ。もうすぐ四月だというのに、窓の外は冬の只中じゃあないか」
ゆったりとした足どりで窓辺まで寄った医師は、ちらとユリアの様子を確認した。
「雪は好きかね?」
「考えたこともない……」
慢性的な寝不足や、精神的疲労のせいで、ユリアの目の下には、深いくまが浮かんでいる。
「では、この季節外れの雪を見て、なにを感じる?」
「なに、を……?」
「複雑に考える必要はない。思いついたままに言ってみるんだ」
ユリアは、泥沼のなかでもがくような鈍さで思考した。
「リリィ様と……見たかった……」
ユリアが、敬愛し、純愛した彼女であれば、目に映るもの一つ一つに対して、子どものようにはしゃいで見せたことだろう。
「冬が誕生日だったね? 君は若い。歳を重ねることにまだ喜びを見出だせるはずだ。いくつになるのかね?」
「今度の冬に、二十三になります」
当然医師は、彼女の情報は把握済みだ。カルテを見れば一目瞭然だった。しかし、彼女に一語でも多く話させることが、今は重要なのだ。
ユリアは、五年もの間、想い人の喪失に心を縛られ、苦悩し、しかも、自らの手で殺めた記憶に苛まれていることになる。
その心の闇を晴らすのは、容易な作業ではなかった。
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