2人が本棚に入れています
本棚に追加
少食な人の空腹。
~九時二分~
用を足し席へ戻ると、葵はお腹の上で手を組んでいた。足を放り出し横たわるように座っている。
「姿勢が悪い。腰を痛めるわよ」
指摘すると、うん、とあっさり座り直した。案外素直じゃない、なんて思ったのも束の間、私が席へ戻るとまた浅く腰掛けた。避けただけかい。
そんな相方はさておき窓の外へ目を遣る。新幹線はまだ速度をあげていない。市街地だものね、もう少し郊外に出ないと速くならないか。葵の言う通り、新幹線から風景を見るのが好きだ。自分には不可能な高速移動をしている様子を見るのは非日常的だから。のんびり眺めていた、その時。
「腹減ったな」
葵が呟いた。思わず振り向く。相変わらずお腹の上で手を組んでいた。前を見詰める目は若干虚ろだ。
「え?」
聞き返すと、腹減った、と繰り返した。こっちは驚きを隠せない。
「お腹、減ったの?」
「何故驚く。私も人間だ、腹くらい減る」
「でもあんた、少食じゃない」
三年前の十七歳の時に大きな手術をして以来、食が細くなったと聞いている。具体的には朝ごはんにバターロールを一つだけ。お昼ご飯はおにぎり一個と野菜スープ。夜は刺身の三種盛りとお酒。勿論、日によってメニューは変わるけど、大体このくらいが一日に食べる量だ。そして空腹耐性もやたら強いから一食くらい抜いても何も言わない。それがどうしたことか、腹減った、なんて。
「少食でも飯は食う。空腹だって覚えるさ」
「だけど葵から、腹減った、なんて初めて聞いたわよ」
「そうかい」
「珍しいこともあったものね。何で今日はお腹が減ったの」
ふむ、と大きな目が此方を見上げる。
「昨夜は五時から晩酌がてら飲んでいたわけだがツマミを食ったのは六時半頃まで。以降は酒しか口にしていない」
「不健康よ」
「それこそ満腹になっちまったんでね。最後に固形物を食ってから十四時間半が経過している。おまけに酒の分解のためにエネルギーを使ったらしい。加えて寝坊のせいで今朝は随分走った。当然、朝飯を食う暇も無かった。な、腹の一つも減るさ」
完全に早寝が裏目に出ている。しない方が良かったんじゃないかしら。
「まあ騒いでもしょうがない。うるさくしてすまん」
首を振る。謝る必要なんて無い。それともお腹が減って判断力も鈍っているのかしら。
やれやれ、と葵は溜め息を一つ吐いた。そのまま黙り込む。私も車窓へ視線を戻す。新幹線はまだ街中を走っていた。
最初のコメントを投稿しよう!