第一話

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第一話

 アドニス・マーストンは息を弾ませながら、二段飛ばしで豪奢な大理石の階段を駆け上がっていた。 「廊下を走ってはなりません、アドニス様!」  アドニスの従者ニア・ロンバートが、こんな時でも生真面目に最大速度で歩いて後を追うものだから、元々数メートルしかなかった二人の差はますます広がるばかりだ。  アドニスにとってはニアにとやかく言われることはもう慣れっこで、振り向きもせず太陽のような笑顔をたたえたまま目的の場所へ向かって駆けた。  勢いよく自室の重い扉を開け、スズランの刺繍が施されたカーペットを乱雑にめくり、床に現れた木製の蓋の鍵穴にメッキの剥がれた鍵を差し込んだ。蓋を開けると、下へ続く梯子が現れ、アドニスは持っていた鉄籠の持ち手を口で咥えて暗闇の中へ迷いなく潜った。  アドニスは横着し、残り数段のところで両手を離した。着地と同時に床が唸り声を上げ、埃が巻き上げられた。 「やっと捕まえたよ、!」 「アドネ」と呼ばれた少年は、振り向き様にアドニスと目が合うと優しくにっこりと微笑んだ。  艶のある黒い髪、白い肌に微かに浮かぶそばかす、赤みの少ない薄い唇、長いまつ毛の奥で控えめに輝きを放つダークブルーの瞳。  顔も、体躯も、アドニスとアドネは区別がつかないほど見た目が瓜二つだった。お互いに顔を合わせると、まるでそこには一人しか存在せず、鏡に全身を映しているかのようだった。 「今回はキッチンの鼠取りに引っかかってたのをこっそり持ってきたんだ」  アドニスは嬉々として、手に持っていた鉄籠を覗き込んだ。中にいたのは金色の毛のネズミだった。ちいちいと不安げに鳴きながら、辺りをキョロキョロと観察している。 「前回から結構時間かかっちゃって、ごめんね」 「仕方ないよ、珍しい色なんだもん。いつもありがとう」  アドネは鉄籠を受け取って、壁際のテーブルの上に置いた。 「いつもネズミばっかだし、本当はもっと大型の連れてきたかったんたけどなあ。ネコとかイヌとか、あと山羊とか」  アドニスがちょっとだけ悔しそうに笑った拍子に、下唇がじんわり紅く染まるのをアドネは見逃さなかった。 「アドニス、唇切れてるよ!」  不安げに顔を歪めたアドネに対して、アドニスは下唇をなぞった指に付着した血を見ても「あらあら」と言っただけでどこか他人事だった。 「鉄籠を咥えた時に切ったのかな。まーたニアに怒られそ」  噂をすれば、開けっ放しの入り口からニアが肩を上下させながら降りてきた。 「……アドニス様、ここには勝手に入らないようにとあれほど——」  ニアは一目でアドニスの負傷に気付いたらしく、細長い目が見開かれ悪魔の形相に変貌した。 「急いで怪我の手当を。それと、やはり鍵は返してもらいます」 「えー、ちょっと切っただけじゃん」 「いいえ、今回ばかりは許しません」  頼まれれば鍵を貸してしまう辺り、なんだかんだニアはアドニスに甘いのだとアドネは思っていた。それでもついに限界が来てしまったらしい。  アドニスに会える頻度も減ってしまうのか、とアドネは肩を落とした。  ニアは悪魔の形相のまま、アドネに向き直った。 「今日の訓練は、20時からだ」  アドネは自分まで怒られている心地がして、体を萎縮させてこくりと頷いた。  ニアに引っ張られる形で、アドニスは自室へと向かって行った。梯子を登る途中で、アドニスはアドネに振り向き大袈裟に口を開閉させた。  あいかぎつくったから、だいじょうぶ  唇の動きで、アドニスが何を言ったのかアドネに伝わった。さっきまでの悲しげな表情も嘘だったということだ。最後にアドニスは茶目っ気たっぷりにウインクをし、部屋にはアドネ一人残された。侮れない王子様だ、とアドネは思った。
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