第三話

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 まだ幼く、自信に溢れた黒い文字を、アドネの細い指がそっと撫でる。  アドニスにとてつもなく失礼なことをしてしまった。  後ろめたさが胸の奥をずしりと刺す時、アドネは一冊のノートを読んで、心を落ち着けていた。  歴史、秩序、道徳とかいう枠に収めなくていい、自由なノート。アドニスがアドネにくれた最初のプレゼントだった。  アドニスは、アドネが「知りたい」と言ったことを、何だって調べて教えに来てくれた。アドネは、教科書には載っていないアドニスの手に入れた知識を忘れたくなくて、このノートに記すようになった。  だから、ノートは実質「アドニスが教えてくれたこと」ノートだった。 「外、どうだった?」  ただいまの一つも言わずに部屋に篭っていたことをアドニスは気に留める様子もなく、いつも通りの快活な笑顔でアドネに感想を問うた。  想像していたより、ずっと素敵だった。  ありがとう。  アドネはまた一つページをめくった。  綺麗事もまるっきり嘘ではないけれど、名前のつけられない、まだ口から吐き出してはいけないもやもやが、ナイフをちらつかせてアドネを批判しているような気がした。  ありがとう、だって、これ以上深入りさせたくない意思の表れに過ぎなかった。アドニスは意図を察してか否か、ただ「そりゃよかった」とだけ言って、アドネの部屋を後にした。 「……ナーシャ」  滲んだ文字を読み上げる。  アドネは時折自分が分からなくなる。だけどノートはアドネの真実を教え、あちら側へ引き戻してくれる。  足元から湧き上がってくる生温かい水溜まりに喉元まで浸かると、アドネは心が軽くなったような気がするのだ。  アドネは街外れの廃屋で一人泣いているところを発見された。  でも、両親に捨てられたわけではない。  当時、街では強盗目的の殺人が多発しており、被害者は10名以上にまで及んだ。そして、被害者の中にアドネの両親と思わしき人物が含まれていた。  殺人鬼はたった数ヶ月で鳴りを顰め、行方は未だに分かっていない。残されたのは僅かな目撃情報だけ。見窄らしい身なりに、それに似つかわしくない小麦畑のような明るい髪色。まだ10歳前後ほどにしか見えない、痩せ細った少年。すぐに該当する人物は一人に絞られた。その少年の名前は、ナーシャ。  アドニスが調べてくれた、アドネの出生の全容。失われた記憶を補完するには不十分だが、決して裏切らない真実。  そうだ、僕はここにある。  アドネは目を瞑る。赤く染まった水が頭の先まで覆い、アドネは心地良さそうに浮遊感に身を委ねた。
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