第三話

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 アドニスは部屋で昼食を済ませた後、購入したばかりの歴史書を読み始めた。宗教戦争について書かれている書物だったが、著者の主義主張が露骨すぎてアドニスには大変退屈に感じた。3ページ読み進めたところで、アドニスは苛立って本を勢いよく閉じた。その衝撃で、テーブルの端に置いてあった羽付きのペンがころんと床に落ちた。  コンコン、とアドニスの部屋のドアを叩く音が響いた。アドニスにはノックの音ですぐにニアだと分かった。 「おかえり」  ドアを開き、ニアは「ただいま戻りました」とアドニスに向かって深々頭を下げた。 「私が不在の間に、何も異常はありませんでしたか。食事は残さず食べましたか。課題は全て終わりましたか」  ニアは頭の中で聞くべきことを事前に用意している時、間髪入れず一気に尋ねてしまう傾向があった。  アドニスは「はいはい問題ないよ」と適当な相槌を打ち、凝り固まった首をコキコキと鳴らした。 「なんの意味があるんだか」  アドニスはついでに自虐めいて言った。  ニアはアドニスの邪魔にならないよう音も立てずにベットメイクを済ませ、床に放り出されたままの服を集め、両手に抱えた。  その様子を珍しくじっとり眺めていたアドニスは、ニアの背中に向かって語りかけた。  「楽しかったか?」  ニアの寝巻きを持ち上げる手が一瞬止まったが、すぐに時は動き出しそれを掬い上げ服の山の頂上に重ねた。 「仕事ですので、楽しいなどという浮かれた感情は……それに、道中誰一人お怪我も病もなく、私の出番はありませんでした」  なので第一王子ともほとんど口を聞いていない、と付け加えようとニアが口を開きかけるも、アドニスは待たなかった。 「兄上は、僕のこと何か言ってた?」 「……いえ、何も」  ニアはすぐさま否定した。しかしアドニスの闇夜のような瞳が、ニアの目が泳ぐのを見逃すはずがなかった。  窓から入り込んでいた冷たい風がぴたりと止み、布のカーテンが陽の光の侵入を拒んだ。 「お前も、兄上と同じなんだろ?  僕のことを、かわいそう、かわいそうだと嘲笑っているんだろ」 「いえ、私は決して……」 「裏切るんだよ、どうせ。愚劣なあいつらと同じだから。  今回の遠征だって、内心喜んでたんだろ?あっち側に気に入られれば、自分だけは屈辱の日々から解放されるもんなあ」 「わっ私は……!心から、誰よりもアドニス様のお気持ちに寄り添いたいと」 「お前に僕の何が分かるって言うんだ!」  アドニスの怒号は吹き荒れる疾風をも貫いた。耳まで緋色に染まり、目は微かに血走っている。  アドニスは視線を落とし、一息吐いた。そして、洗濯物を持ったまま小さく固まっているニアに向かって、にっこりと微笑んだ。 「僕、お前みたいな善人面だけの中身のない人間、一番嫌いだよ」  ニアの唇は震え、肩で息をし始めていた。ニアは顔を上げることすらできなかったが、やっとのことで閉じた肺を開き声を絞り出した。 「……アドニス様は、私に何を求めておられるのですか」  しばらく静寂が続いた。そして、高級なブーツが重く床を軋ませる音が、次第にニアの元に近づいていった。 「城の人間、一人残らず殺してこいよ」  アドニスの甘い囁き声は、ニアの硬直した体を溶かした。  ごくり、と唾を飲み込む音が二人の間を駆けた。ニアは鋭く虚な眼差しを、真っ直ぐにアドニスの瞳に向けた。 「はい」  また、風が止んだ。  ふ、小さな鼻息が、静寂を切り裂いた。 「ははっ、気持ち悪」  アドニスはベットに転がり込んで、国内で流行中のパズルゲームに勤しみ始めた。  ニアはその様子をしばらく見つめた後、アドニスの背中に向かって小さく一礼し、部屋を後にした。  ニアは扉を閉め、数歩歩いたところで、ニアは小さくうずくまった。洗濯物に染み込んだアドニスの匂いが、さらに濃くニアの肺を満たしていく。  冷たい廊下に、静かな嗚咽が響いた。  
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