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私の斜め後ろから、破裂音が聞こえて来た。そして、私は申し訳無さそうな声で、「ごめ〜ん。今の私」と謝った。
一緒に歩いている香織は何事も無かった様に振る舞い、新井くんは私を一瞥した。
最初のうちは新井くんも『気にするなよ』とか『生きてる証拠だぜ』なんて言ってくれたけど、もう何も言ってくれなくなった。乙女の尊厳が傷つく。私は何をやっているのだろう。
お姫様は洋の東西を問わず、マナーが厳しい。手に汗をかいても駄目だし、咳もNGだ。当然、オナラなんてもっての他。だから、日本にはこんな職業があった。
屁負比丘尼。
お姫様に随行し、お姫様がおならをしてしまったら、身代わりに『私がこきました』と申告し、姫の名誉を守るのだ。とても重要な職業であったそうだ。そして空気を読める存在として周囲の人々から慕われていた。そんな事を日本史の授業で先生が語っていた。先生の話し方が上手く、教室は笑いに包まれた。こんな調子で様々な小話を入れるので、日本史の授業は嫌じゃない。
現代のお姫様ってなんだろう。実際、お姫様に当たる人はいるだろうけど、身近なとこではきっと恋する乙女だ。
でも、まさか私が屁負比丘尼をやる事になろうとは。
「知里、お願いがあるの」と親友の香織が私に手を合わせた。女子トイレにお花摘みに行き、手を洗っていた時だ。「あの、最近ね、新井くんと帰り道に一緒になるの。だからさ、フォローしてくれない?」
「フォロー?」
私たちは高校3年生。夏休みが終わり、部活動は引退だ。サッカー部のエースだった新井くんも引退した。それで香織と下校時間が同じになり、何となく一緒に帰る事になったそうだ。
「フォローって何をすれば良いのよ?あんた、新井くんの事、好きなの?」
「あああ、声、大きい」と香織は手を振りながら言い、俯いた。「多分、そう、かな」
香織の顔は紅くなっていた。
新井くんは運動はできる。勉強はまあまあ。顔はそれなり。性格はガサツに見える。私は好みじゃないけど、女子には人気がある。新井くん自身は女子に人気がある事に気がついていないみたいだ。
「へぇ。フォローって何よ。下手に私ばっか喋って目立ったら駄目でしょ?」
「あの、知里が隣にいると落ち着くのよ」
「でも、付き合う事になったらいつも二人きりよ。大丈夫なの?そんな調子で」
「つっ付き合う!あああ。でも、でも、しばらくすれば慣れる、と思う」と香織はさらに深く俯いた。「お願いがあるの」
「お願い?隣にいるだけじゃなくて?」
「えっと。言いにくいんだけど」と香織は言った。どんどん小声になって聞き取りにくい。
「はっきり言いな。力になってあげるからさ」
と私は言い、香織の肩に手を添えた。
「あのね。もし、わたしがおならとか、お腹の音が鳴ったりとか、しちゃったら『私がやりました』って言って欲しいの」
「それって日本史でやった奴?」
「うん。屁負比丘尼」
「つまり、あんたはオナラのサブスクに入って、いつでもどこでも24時間こき放題。代わりに私は乙女の尊厳を失うのね?確か、屁負比丘尼って結婚の予定の無い女性がやるんじゃなかったっけ?私だって彼氏、欲しいんだけど」と私は言った。
「出来るだけ我慢するから」と香織は弱々しい声で言った。
「ふふ。まあ、良いよ」と私は言った。「でも、私に好きな男子ができたら、協力してよね」
「もちろん。何でもする!」と香織は顔をあげて笑みを浮かべた。香織、結構、可愛いから、普通に告白しちゃえばいいのに。
振られる事は辛い。だから、出来る事は何でもしたい。そんなお姫様の心意気に私は答えたのだ。決して報酬につられた訳では無いのだ。
取り決めはこうだ。香織がオナラやお腹の音、ゲップ、その他もろもろ、乙女のマナー違反をしてしまったら、香織は私の腕を掴む。そうしたら、私は『ごめん、オナラしちゃった』と言うのだ。そして回数に応じてクレープを奢ってもらう事になった。
日本初の鉄道のルールにおならをしたら罰金があったそうだ。これも日本史の先生から習った。何だか似てるな。
さて。仕事開始だ。私は何気ない風を装い、香織の隣に行った。香織を挟んで新井くんがいた。でも、新井くんは私の方なんかまるで見ない。香織の方しか見ない。もう、二人付き合っちゃえよ。
香織は私がいる事で心強いのだろうか。何だか積極的に喋っていた。トイレでの小声が嘘のようだ。
「新井くんは大学どうするの?地元に残るの?それとも、東京とかに行くの」と香織はいつもよりも可愛く、キーの高い声で言った。
「そうだなぁ。俺、こう見えて寂しがりなんだよ。友達のいる地元に残ろうって考えてるんだ。こっちにも良い大学あるしさ」
「あっ。私とおんなじだ」と香織は言い、上目遣いで新井くんの方を向いた。
「おっ。そうなんだ。じゃあ。また会えるな」と新井は言い、頬を緩ませた。その瞬間、香織は私の腕を掴んだ。そしてやたら甲高い音が響いた。
「ごめん。また私」と私は言った。新井くんが私を軽く睨んだ。そりゃあそうだろう。良い雰囲気になりそうな所でおならだ。睨みたくもなるだろう。気持ちは分かるけど、さ。
リラックスできているのだろうか。香織のお腹は絶好調だった。すでに何発ものおならをかましていた。その度に身代わりになる私の乙女心や尊厳は傷つきまくっていた。
私は何の為にここにいるんだろう。お腹空いたな。時折、新井くんは私をうつろな目で見た。何故、香織の隣に屁こき虫がいるのだ、と言わんばかりだ。私は屁こき虫なんかじゃない。屁負比丘尼だ。やれやれ。明日には辞めさせてもらおう。
でも、香織が慎重になるのも分からなくは無い。振られて傷つくのも怖いけど、好きな人と話せる関係性を失う事が怖いのだ。その結果、自分がどんな心境になり、どんな暴走をしてしまうかが怖いのだ。
でも、香織と新井くんは大丈夫だ。お互いを見つめる視線の温度が違う。ただのクラスメイトの壁を越えようとする視線だ。そんな時だ。
『グー』
『グ〜?』
なんという事だろう。私と香織、同時にお腹が鳴った。
「ごめん、お腹鳴った」と私は反射的に言った。すると横から「私も」と弱々しい囁き声が聞こえてきた。
隠しきれないと思ったのだろう。香織は肩を振るわせ、両目を強く瞑っていた。当然、顔は真っ赤に染まっていた。
「俺も腹減ったな」と新井くんは言った。「良かったら一緒に飯、行かねぇ?美味い中華料理の店がこの辺りにあるんだ。部活帰りに腹が減ると行ってた穴場の店。俺、奢るからさ」
香織は顔を上げて「うん!行きたい」と言った。瞳はキラキラと輝かせていた。
「あ。私はパス。今日の夕飯、牛鍋なんだ」と私は嘘を吐いた。そして、私は香織から離れた。
「私の家、こっちだから、じゃあね!」と言い、道を曲がった。
さて。クレープはどうなるだろう。大丈夫だ。別れ際の2人は私なんか目もくれず、お互いを見つめ合っていた。
よおし。トッピング全部盛りのゴージャスなクレープを奢って貰おう。もっとも香織がデートで忙しく、私なんかと会ってくれないかも知れないけれど。
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