11

1/1
568人が本棚に入れています
本棚に追加
/53ページ

11

 病室の窓から、関東平野の遥か彼方で青空に輝く筑波山が見える。  雄大かつたおやかにその存在感を放つ筑波山は、ずっと張りつめていた茜音の心に安らぎを与えてくれた。忘れかけていた平凡で変わらぬ日常が、そこには恒久の時間として流れ続けている。    腹部の打撲と診断された茜音の症状はそれほど酷くはなく、入院して3日目には歩けるほどに回復した。あと2、3日で退院できるらしい。だが葉月のほうは重症で、今はICUから一般病棟に移ったものの、暫くは入院生活を続けなければならない。  茜音はベッドを抜け出すとエレベーターに乗って、2階上にある葉月の病室へと向かった。  入口からそっと大部屋の病室を覗き込むと、未だベッドの上で様々なチューブをからだに繋がれた葉月が、同室の小学生の男の子と何事か話をしていた。この子は腕の骨折で入院しているが、病院生活にすっかり飽きたのか、いつも落ち着きなく彷徨き回って悪さを働き、よく看護師に叱られていた。 「トイレの花子さんって、知ってるか?」  男の子は知らないと言って、首を振る。それはそうだろう。その都市伝説が流行ったのは、もうすいぶん昔のことだ。 「いいか、よく聞くのだ。この病院の3階にあるトイレ、その一番奥の個室におかっぱ頭をした老婆の花子さんという妖怪が潜んでいる。花子さんは夜になると鬼の仮面を被ってトイレから抜け出し、『悪い()はいねえがあ』と呟きながら病院内を徘徊する。そして悪い子を見つけると(さら)ってトイレに連れて行き、骨も残さずすっかり食べてしまうのである。なんという恐ろしい妖怪であろうか。噂によると、花子さんの今夜のターゲットは、どうやら君らしい」 「そんなの、嘘だ!」 「よろしい。だが約束しよう。君が明日の朝には、この病室から跡形もなく消えてしまっていることを」  男の子はびくっとして、たちまち顔が青ざめた。 「それが嫌なら、今からベッドに潜り込んで眠りにつくまでこう唱え続けるのだ。『ヤマガミ様よ、どうか我が身を助けたまえ』とな。良いか、呪文を間違ったり、唱えるのをやめたりしたら、ヤマガミ様は助けてくれぬ。花子さんに喰われたくなければ、必死になってお願いするしか君に残された道はないのだ」  たちまち男の子は自分のベッドに戻り、頭から布団を被ると、ひたすら呪文を唱え始めた。  茜音はくすくす笑いながら、葉月のもとへと歩み寄る。 「なんでトイレの花子さんの話に、ナマハゲが出てくるのよ」 「都市伝説というのは、多くの説に枝分かれしていくものだ。正解なんてない」 「あの子、かわいそうに。すっかり怯えてるじゃない」 「この世界は、嘘と欺瞞(ぎまん)に満ちている、と教えてやっただけである。いずれ僕に感謝する時が来るであろう」 「トラウマになったりして。それにしても、もうすっかりいつもの葉月くんだね。良かった、元気になって」  葉月は、ああ、と言うと顔を僅かに頷かせる。からだはまだまだ動かせない。その様子を見ていると、茜音は心が痛む。葉月は理央にわざと刺された。刃先が茜音に向かうことのないように身代わりとなって。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!