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◇
自室のソファで目を覚ますと、茜音は頭を押さえながらよろよろと上体を起こした。
テレビは付けっぱなしで、騒がしい芸人たちが怒鳴り合っている。煌々と照らす電灯が酷くまぶしく感じた。
「悪い夢でも見たのか? ずいぶん、うなされていたようだが」
その声に目を向けると、葉月佑也が窓側のクッションにもたれながら静かに本を読んでいた。
それはまるで自分の部屋のように優雅にくつろいでいて、茜音が起きても本から目を離さない。
「いつから、いたの?」
「2時間ほど前かな。茜音がぐっすり寝てたから、起こす気はなかったよ」
「今、何時?」
「僕の体内時計は、10時32分だと言っている」
茜音はスマホを手に取って時間を確かめる。10時32分だ。葉月は時計を見なくても正確な時間を言い当てることができる。その唯一無二とも言える不思議な能力は驚くべきものだが、それを活用する場がこれといってないことも事実だった。
葉月は茜音の大学時代からの恋人だ。付き合ってもう7年になる。
背はひょろりと高く、目鼻立ちがくっきりしたそれなりにイケメンではあるが、ぼさぼさの髪とぼんやりとした表情がそれを打ち消してしまっている。太い黒縁フレームのメガネも、どこか古臭い。着ているものだっていつも同じ。冬はグレーの厚手のチノパンに、毛玉だらけの茶色のセーター。昔から身だしなみに気を遣うような性格ではなかった。だけど洗濯はまめにしてるし、茜音の家に来れば勝手に掃除もしてくれるような見た目とアンバランスな側面もある。
大学を卒業しても就職はせずに、ずっと図書館でアルバイトをしている。
当然貧乏で、西荻窪から歩いて20分のところにある、家賃の安い古い木造アパートに住んでいるが、本人は特に焦る様子もなく気ままな生活にすっかり馴染んでいた。本さえ読めれば、それで満足らしい。
茜音はアパートの鍵を渡してあるので、たまにこうして突然やってきては、勝手にくつろいで適当に帰る。そんな関係が当たり前のようにずっと続いていた。
「夕飯食べてないんだろ? 腹減ってるのなら、有り物の食材でなにか作るが」
「ううん、大丈夫。でも、喉はからっから」
茜音は立ち上がるとキッチンに向かい、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すとそれをごくごくと飲んだ。まだ頭はずきずきとするが、葉月の顔を見たおかげで少しは楽になった気がする。どこかほっとするようなその存在が、なんとなく7年も続いてきた理由のひとつかもしれない。
「ところで、茜音に大事な話がある」
「どんな話?」
「僕はどうやら、ひとつの真理に辿り着いてしまったようだ。聞きたいかい?」
「聞いてあげよう」
「円周率がなぜ割り切れないか。なぜ無限に数が続いていくのか。それを考えていたら理解したんだ。円周率とは、それはすなわち宇宙が無限であることの証明である、とね」
茜音はぽかんとして葉月に目をやるが、彼は珍しく力強い眼光を放っていた。
その顔を見ていると今朝がた、同僚の染谷と(記憶にはないにせよ)寝てしまった事実が蘇り、茜音はどこかいたたまれない気持ちになる。キッチンと寝室を兼ねたリビングの向こう側。今はその距離感が茜音には必要だった。
思えば酷い一日だった。裏原が死んだことも衝撃だったが、その裏原が自分のストーカーだったなんて。思わず、はっとする。
「ん、どうした?」
「葉月くん、あのさ。この近所で怪しい男をみかけたことはない?」
「怪しい男か……隣の部屋のおばさんに、『あんたは怪しい』と言われなき中傷を受けた覚えはあるが」
「そうじゃなくて。小柄であまり特徴のない中年の男が、うろついてなかったかって聞いてるの」
「どうしてそんなことを聞く」
「実は……会社の同僚に付き纏われてたみたいなの」
葉月は天井を見上げると、目をぱちぱちとさせた。
「そう言えば、心当たりがある。小柄な中年男を見かけた。この部屋のドアの前でじっと立ってたから妙だとは思ったのだが」
「ホント? それっていつ?」
心がざわめいた。やっぱり裏原は自分の知らないところで、家までやって来ていたんだ。
だが、葉月が次に口にしたその言葉は、確信を遥かに超えた恐ろしいものだった。
「さっき、ここに来たときだ」
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