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 頭のなかが真っ白になった。  そんな……そんなはずないじゃない……だって裏原は、死んだはず……。  背筋がぞっとして、いてもたってもいられない。ひんやりとした寒気を肌で感じ取る。  気づくと玄関に駆け寄っていた。  ドアの覗き窓に恐る恐る目を当てる。だが、ドアの前に立つ人影などない。  思い切ってドアを開けた。左右を見渡したが、外廊下には誰もおらずひっそりとしていて、隣の空き地に生える楓の枝が強い風に煽られてざわざわとしなる音だけが聞こえている。  不安な気持ちのままドアを閉め、リビングに戻ると葉月は微かに困惑した表情を浮かべていた。 「嘘じゃない。本当に見たのは確かだ。黒いスーツを着ていたから、訪問営業かなにかだと推測した。だけど、ドアの前でじっとしていて身動きしない。僕が近づいたら、我にかえったようにゆっくりと立ち去っていった」 「どんな顔をしていた?」 「うーむ、覚えがない。ひとを観察するのは趣味ではあるが、あれほど記憶に残らない顔も珍しい」  昨日、裏原は黒いスーツを来ていた。小柄な体型と中年男性ということも一致する。なにより、特徴らしきものが見当たらないというところこそが、裏原ではないかと思わせた。だが、そんなはずはない。 「あのね、良く聞いて。そのひとは今朝、井の頭公園で死体となって発見されたの」 「ふうむ。では僕は、幽霊を見たということか」 「そんなの、信じたくもない」 「同感だ。幽霊なんて非科学的な存在は、この世界においてあり得ない。僕が見た男は、足もあったぞ。立ち去っていくときに革靴の足音だって聞こえたのだから」  それを聞いて茜音は少しほっとしたが、言い知れぬ不安はまだ蠢く線虫のように心を這いずり回っていた。  じゃあその男は、いったい何者だったのだろうか。  茜音は葉月にこれまで起きたことを話した。  裏原が誰も知らない自分の過去を知っていたこと。謎を残したまま送別会のあとに死んだこと。刑事の高山から、裏原が密かにストーカー行為を働いていた事実を初めて知り、どうやら高山は自分を疑っていること。  送別会の後で記憶を失い、同僚の染谷と寝てしまったことはさすがに話せない。そこだけは包み隠さざるを得なかった。  黙って話を聞いていた葉月は特に驚いた様子も見せず、静かに眼鏡のフレームを手で持ち上げる。 「茜音の話を分析するとだな」 「うん」 「裏原という男は、いわゆるストーカーではなかった可能性が考えられる」 「それって、どういうこと? だって、自分の部屋の壁いっぱいに私の写真を貼っていたんだよ?」 「だが、茜音は気づかなかった。高山が言うようにストーカーという輩は、相手に自分の歪んだ愛情を表立って押し付けようとするものだ。だが裏原は逆に、茜音に悟られないよう密かに行動していたように見受けられる。それはストーカーとしての目的と明らかに相反している」 「そう言われれば、そうかもしれないけど……じゃあ、裏原はどうして私に付き纏っていたの?」 「僕が思うに、裏原は裏で茜音を調査していたのではなかろうか。それは探偵のようにこつこつと足を使って情報を集めて。膨大な茜音の写真を密かに家の壁に貼る行為は、寡黙な職人気質さえ感じて興味深い」 「感心しないでよ。でも私を調査って、なんのために」 「そこまではわからない。しかしながら、そう見方を変えると裏原が茜音の過去を知っていた理由も頷ける。おそらく時間をかけて茜音の人生そのものをじっくりと調べ上げていたんだろう」  葉月の言っている仮説は信憑性がありそうだが、どういった目的で裏原がそんなことをしていたのか、さっぱり見当もつかなかった。だいたい、殆ど接点もない他人のことに、興味が湧くものだろうか。 「まあ、裏原が死んでしまった今となっては真相は藪の中だが。それより気になるのは___」 「なに?」 「なぜ、井の頭池に浮かんでいたかってことだ。泳ぐ季節でもあるまいに」  葉月は目を細めると、顎に手を当ててじっと考えに耽り込んだ。
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