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◇  「ミチル」は忌まわしい過去だ。  だけど、それがいったい何だったのか、今となってはおぼろげな記憶しか残されていない。  茜音は小学6年生まで、静岡県沼津市にある海沿いの小さな街に住んでいた。  ほかの地方と同じように過疎化が進んではいたが、1年を通して温暖な気候で住民も性格の穏やかな人が多く、とても過ごしやすくのんびりとした田舎だった。  友達と学校帰りに海に行ったり、近くの公園やお寺の境内で遊んだり。茜音も楽しい思い出しかなかった。  ただ、ひとつの奇妙な出来事を除いて。  伊坂(いさか)ミチルというクラスメートがいた。  他の友達のことはよく覚えているのに、なぜかミチルのことは記憶に霞がかかったように殆ど思い出せない。  どんな顔をして、どんな性格をしてて。茜音と仲良くしていたのかどうかすらも不明。  唯一知っているのはミチルが小学5年生の時に、海で事故死したということだけ。その理由はわからない。今思うと、先生は子供たちにショックを与えないよう、詳しく説明しなかったのだろう。  最初の頃は、みんな酷く落ち込んでいた気がする。学校のミチルの机の上に瓶に入ったお花が置かれていて、子供ながらにそこだけが現実とかけ離れた異世界の入口であるかのような錯覚を覚え、恐ろしさを感じたりもした。  だけどいつしかみんな、ミチルのことを忘れていく。月日が経って、クラスもいつも通りの活気さを取り戻していた。いつの時代であっても、非日常は日常が上書きしていくものだ。  ミチルが死んでから、1年経ったころだろうか。不可解なことが始まったのは。  クラスのみんなが突然、茜音のことをミチルと一斉に呼び出した。それは冗談やいじめなどでもなく、ごく当たり前のように口にし始めたのだ。 「ミチルちゃん、おはよう!」 「ミチルちゃん、今日一緒に給食当番だよ」 「ミチルちゃん、どこ遊びに行く?」 「ミチルちゃん、せいやくんってかっこいいと思わない?」 「ミチルちゃん、ばいばい。また明日ね」  ミチルちゃん、ミチルちゃん……。そう呼ばれるたびに、「私は、あかねだってば!」と強く言い返したが、みんなはどこかぽかんとしていた。「なに言ってるの、ミチルちゃん。どうしたの?」  耐えられなくなって先生に話した。だけど、先生はなぜか困ったように「そのうち収まるから、あまり気にしないように」と言うだけだった。それはまるで面倒に巻き込まれたくないみたいに。  毎日ミチルと呼ばれ続け、茜音はもう限界だった。どこにも悪意が見られないことも恐ろしかった。事実、自分のことをミチルと呼ぶ以外は、至って普段どおりだったからだ。親友だったゆいちゃんやみくちゃんだって、茜音に対する親愛の情はこれっぽっちも変わらなかった。だからこそ怖くて悲しくて、毎日家に帰っては泣く日々だった。  幸いだったと言うべきか、それが始まってから1ヶ月もしないうちに父親の急な転勤で東京に引っ越すこととなった。  誰にも別れの挨拶もせず、引っ越し先の住所も教えずに、逃げるように沼津の小さな街から出て行った。それっきり当時の友達には会っていない。無論、引っ越し先の葛飾の小学校で、ミチルと呼ばれたこともない。茜音はようやく、忌まわしき呪縛から逃れることができたのだった。  あれから長い時を経て、次第に茜音の記憶からも薄れていった。  だけど今になって、眠っていた恐ろしくも忌まわしい過去の魔物が目覚め、その首をもたげようとしているのだろうか。
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