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 それなりに広いスペースを持つチェーン系コーヒーショップの2階席は夜の時間帯もあってか、がらんとしていた。  中央の円卓で本とノートを開いて一心に勉強している大学生らしき若い男と、窓側のテーブル席で声を落としてなにやら愚痴を溢しあっている会社員ふうの中年女性ふたり。客はそれだけだ。暖色系の明りと静かに流れるチル・ミュージックによって、そこは落ち着いた雰囲気を醸し出している。  茜音は改めて、テーブルを挟んで前の席に座る「その男」を見つめた。  それは、裏原のような存在だった。いや、裏原だとは思うが、その特徴のない顔が裏原であるかどうかも曖昧だった。  至ってありふれた黒いスーツだけが、裏原と思わせる唯一の見た目としかほかに言いようがない。  その男はカップを手に取るとコーヒーをずるずると飲んで、ほっとしたように息を吐いた。 「コーヒーなんて、ずいぶん久しぶりに飲む気がします」 「あなたはいったい、誰なんですか?」  掠れる声で茜音は、そう聞いた。恐ろしさもあったが、その男が何者か確かめたいという気持ちの方が勝っていた。 「こう見えて裏原の幽霊なんですよ、私は」 「冗談はやめてください」 「本当の話です。幽霊がこんな姿をしてるって、驚きましたか?」  茜音はこわごわと、改めて裏原の幽霊を見つめた。存在感が薄いのは確かだが、どう見たって生きているとしか思えない。足もあれば息も吐く。コーヒーだって飲んでいる。それは、これまで想像していた幽霊とは全く異なるものとしか言いようがなかった。だが、幽霊であることを、どこか認識しようとしている自分がいる。その男は裏原に見え、裏原はもう死んでいた。 「まれに街ですっかり生気のない人を見かけるでしょう。あれも実は幽霊なんですよ。私も死んでから知りましたけどね、実は私のような実体のある幽霊はこの世にたくさんいるんです」 「それを信じろと?」 「まあ、素直に信じられないのはわかりますけどね。じゃあ、こういうのはどうです? 先日の大雪の朝、河西さんと会いましたよね。河西さんは傘を差し出してくれたが、私は『地元じゃこの程度の雪なんて、誰も傘なんてささない』と無下な態度を取った。それでも河西さんは自分が半分雪に濡れながらも、私の頭に傘を差した。こんな話、河西さんと死んだ私しか知らないでしょう」 「そ、それは……」 「あれね、実はとっても嬉しかったんですよ。これまで人に優しくされたことなんかなかったから。まあ、そんなことはいいです。とにかくこれで、私が幽霊であると少しは信じてもらえましたか?」 「か、仮にそうだとしても……なんで、そんな人間みたいな格好をしてるんですか」 「さあね。私にもわかりません。このからだが自分のものかすら謎です。ただ、腹は減らないし、眠くもならない。疲れることがないから、一日中ずっとただ歩いているだけ。コーヒーを飲んでも、ちっとも味なんかしない」  裏原はそう言うと、ふたたびコーヒーをずるずるとすすった。  茜音は緊張していたが、不思議と怖さを感じなくなっていた。むしろ、話している相手が今や裏原としか思えない異様な感覚に囚われている。 「……ところで、河西さんにどうしても伝えたいことがあるんですよ」  ゆっくりと顔を上げると、裏原はにごった目で茜音をじっと見つめた。
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