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「裏原さん、おはようございます。傘、持ってないんですか?」 「私は雪国出身なんでね。地元じゃこの程度の雪なんて誰も傘なんか差さないですよ」 「そんな、いくらなんでも風邪ひきますから」  茜音は裏原に近寄ると、その頭の上に傘を差し出した。小さい傘なのでふたり入ると自分も濡れてしまうが、この際仕方がない。会社に向かってふたり並んで歩き始めた。だが、裏原は感謝の言葉を口にすることもなく沈黙に包まれる。黙っているのも(はばか)れたので、仕方なく話しかけた。 「今日で、会社お辞めになるんですよね。転職されるのですか?」 「いえ、とりあえず辞めようと決めました」 「それは、どうしてでしょう?」 「やりたいことがあるんです。私ももう46歳なので、今のうちかと思いまして」  46歳だったのか。28歳の茜音より18も年上だ。そう言われれば年相応にも見えるし、それより若くも老いても見えた。それだけ裏原の印象そのものが曖昧だった。顔を見てもすぐに忘れてしまいそうなほど、すべてにおいて特徴というものが見受けられないことに今更ながら気がつく。 「はあ。やりたいことですか」  なんとなく答えた茜音の言葉に、裏原はふと押し黙る。その顔は、むっとした表情に変わっていた。興味なさげに聞こえたのだろうか。実際その通りではあったが気まずくなって、茜音はあわててごまかした。 「そ、そうですよね。どうせ人生は一度きりなんだから、やりたいことをするのが一番ですよね」  フォローしたしたつもりだったが、裏原はどんよりとした個性のない小さな目を茜音に向けたままだ。そうして(おもむろ)にこう口にした。 「ところで。前からひとつ気になっていたのですが」 「なんでしょうか?」 「河西さんて、小さい頃のあだ名は、ミチル、でしたっけ。名前は茜音なのにミチルって変ですよねえ」  思わず、息を呑む。立ち止まって裏原の顔を見つめた。裏原はその平坦な顔からすっかり表情を消したままだ。 「ど、どうして、それを……」  途端にからだが凍り付いたのは寒さのせいではない。恐ろしい感情がたちまち心を覆い尽くしていた。親しくもない裏原が、なぜ知っているのか。  確かに小学生の頃、一時期茜音はミチルと呼ばれていた。そのことを知っているのは当時住んでいた地方のごく限られた人たちだけだろう。もちろん、東京に上京してからは誰かに話したり、SNSに公開したこともない。もとより、それは思い出したくもない忌まわしい記憶だった。 「さあ、どうしてでしょうね」  呆然として裏原の顔を見つめる茜音を無視して、ひとり裏原は雪のなかを歩き始めた。  ふと振り返り、いかにも憂慮を取り繕ったような顔つきでこう言う。 「こんなとこに突っ立ってたら風邪引きますよ」
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