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 困惑した顔を見せる茜音をじっと覗き込むように見つめながら、裏原は猫背をより酷くする。まるで背中に穢れた重い石でも載せているかのように。 「とにかく私が言えることは、ミチルは河西さんに復讐するために、ここへやってきた。それだけは確かです」 「復讐するなら……なんで直接私の前に現れないんでしょうか。裏原さんに取り憑いて、私のことを調べさせて……ミチルはいったい何をしたいのか」 「さあ、半年もミチルと一緒でしたが、そこまではちょっと。だけどこれから河西さんにお伝えすることは、ひとつのヒントになるかもしれません。ただ……」 「ただ、なんですか?」 「こいつは河西さんにとって、いい話とは言えないんですよ」  裏原はそこで一呼吸置いて、コーヒーに手を伸ばす。ずるずると音を立てて飲むその姿は、まるで生きている人間が心を落ち着かせようとしている行動そのものだった。茜音は激しい動悸を抑えることができない。恐ろしいのは裏原が幽霊だからではなく、幽霊なのに人間のように恐れの感情を見せているからだ。  裏原はカップをそっとテーブルに置くと、より静かに口を開いた。 「私の送別会が終わった後のことを覚えてますか?」 「いえ……それが、記憶がなくて」 「実はあの日に会社を辞めるように命令したのもミチルなんです。その夜に送別会があることをミチルは知っていた。そしてもうひとつ、あの夜は10年に一度と言われるスーパーブルームーンが出現した。ミチルはどうやら、それに拘っていたみたいなんですね」 「スーパーブルームーンってなんですか?」 「1年で月が最も地球に接近する、つまり月が最も大きく見えるタイミングで満月になることを、スーパームーンと言います。また、同じ月に二度目の満月を迎えることをブルームーンと言います。必ずしも青いからブルームーンというわけじゃないんですが、人の目にはなぜかより青く見えるんでしょうね。めったに起きないですが、スーパームーンとブルームーンが重なることを、スーパーブルームーンと言うんです」 「はあ。でも、スーパーブルームーンとなんの関係が?」 「さあね、私にもわかりません。いずれにしてもあの夜は、とてもでかくて青い満月が輝いていた。それは積もった雪を青々と照らすように。それがミチルにより大きな力を与えたのかもしれません。店を出て月を見上げたその時でした。私の頭の中から忌まわしき大きな塊がふっと消えていったんです。あの場には、営業管理部の殆どの人たちが集まっていました。おそらくミチルは、私から他の誰かへと乗り移ったんじゃないかと」 「乗り移った……」 「ええ。その瞬間、私の記憶も失われたんですが、微かに覚えているんですよ。ぼやっとした光の塊が私の体から抜けて、そこにいた誰かの体へと入っていく光景が」 「それが誰だかは覚えていないんですか」 「残念ながら。気が付けば私は井の頭池にいました。その時、ミチルの小さな残滓(ざんし)がまだ頭の中に居座っていることに気づきました。どうやらあいつは、アメーバのように分裂するらしい。そいつの最後の命令が、『池に入れ』だったんですよ。つまりはそこでお役御免ってことだったんでしょう」  茜音はただ、呆然とするしかなかった。ミチルは裏原から誰かに乗り移った。そして乗り移られた誰かを使って、ミチルは何をしようとしているのだろうか。 「とにかく、気をつけることです。ミチルは河西さんのすぐ近くに今もいます。私が言えることはそれだけです」  裏原は音もなく、すっと立ち上がった。茜音を見つめるその目は憐れみに満ちている。 「コーヒーごちそうさま。実は生前はコーヒー中毒でしてね。味はしないけど、おかげで生きていた頃を思い出しましたよ」
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