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◇
高山が帰った後、茜音は岩崎に言われて会議室に残された。
岩崎は焦燥し切って肩を落とし、大柄なからだがすっかり小さく見えた。立て続けに部内で起きた事件に、もはやどう対処して良いかわからない、その心の内がありありと沈みきった顔に映し出されている。
茜音も同じだった。怪文書とともに自分のハダカの写真が社内に流れてしまった恥辱。理央にハサミで刺されそうになった恐怖。そして予想もしなかった染谷が有川を刺したという事実を未だ受け止められない困惑。頭のなかに様々な負の感情が暴風のごとく吹き荒れて、心が奈落の底へと飛ばされてしまいそうだった。
「染谷があんなことをするなんて、信じられないよ」
重々しく口を開いた岩崎は、落とした目を落ち着きなくしきりに瞬かさせていた。
「ちょっと抜けたところもあったけど、真面目で頑張り屋で。あいつは、人を刺せるようなタイプじゃない」
「わかります……きっと、なにかの間違いだと私も思います」
染谷が有川を刺して拷問までする動機がひとつもなかった。それどころか、浮気した相手は茜音であり、理央に怯えていたはずだ。今すぐにでも本人に真相を確かめたいところだが、高山の話によれば染谷は行方をくらましており、総力を上げて捜索中とのことだ。
「まあ、今のところは染谷の件をいくら考えても仕方がない。あとは警察に任せよう」
「はい……」
「それより河西、これからどうする?」
岩崎は疲れ切った目を茜音に向けた。いかにも不憫だとその目は語っている。
「あんなのが広まってしまったら、河西も会社に居づらいだろう。捏造だと言い張ったところで、真に受ける社員は少ないだろうしな」
茜音は唇を噛んで俯く。確かにメールの文章だけであればまだ、信憑性のない悪質な嫌がらせだと受け止めてくれる人も多かっただろう。それに今やSNSなどで世の中はデマに満ち溢れている。最初は話題で持ちきりになっても、時が経てば空気の抜けた風船のように萎んでいく。そうして皆、すっかり忘れ去る。そうなる可能性だってあった。だけど問題は写真だ。特にハダカの写真は弁解しようがない衝撃的なものだった。
岩崎と会議室に向かうときの、みんなのあの目。女性社員の殆どは蔑み、男性社員の何人かはどこか下衆な性的感情をあらわにしていた。そのうちの何人かは写真を保存するかもしれない。それがもしもSNSで公開されることがあれば、社内に留まらず世の中に広まってしまうだろう。いずれ噂は消えても、デジタルタトゥーは永遠に残り続けてしまう。
それは考えれば考えるほど、とても恐ろしいことだった。
「どうだ。少し休むか?」
「休職ってことですか?」
「ああ。ほとぼりが冷めるまで、数週間か数ヶ月か。この先どうなるか俺にもさっぱりわからないが、そのほうが河西のためにも良いと思うのだが」
熱いものが込み上げて来て、自然と涙がこぼれ落ちた。
入社以来ずっと仕事を頑張ってきた。誰よりも成果を上げて、上からの信頼も厚かった。事実、昇格の話をつい最近もらったばかりだ。なのに……こんなことで、あっさりとこれまでの努力が泡のように消え失せてしまうなんて。
「お気持ちは有難いのですが……会社を辞めるしかないと思ってます」
岩崎はそれでもなにか言いたそうに口を動かしていたが、結局出て来たのは「そうか……」の一言だけだった。
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