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 どこまでも深い群青色に沈んだ海は、波も立たずひたすら穏やかだった。  今にも茜色から漆黒へと変わろうとする空の彼方に、生まれたばかりの青く大きな満月が神々しくも浮かび上がっていた。 「あかねちゃん」  自分の名を呼ぶ、声がした。  ぼんやりと月を見上げていた茜音は目を落とす。海岸には女の子の姿があった。その顔は、暮れゆく時にかき消されるように、すっかりその輪郭を失っている。  いつからそこにいたんだろう。ずっと一緒にいた気もするが、思い出せない。 「ずっと、そばにいてくれる?」  そう尋ねられて、思わず「うん」と返事をした。  だけど顔の見えない女の子は、不思議そうに頭を傾げる。 「うそつき。あかねちゃんもみんなと一緒。わたしが怖いんでしょう」  その言葉に、茜音は固まってしまう。ふいに恐れの感情が押し寄せてくる。  気づくと女の子は、大きな石を手にしていた。 「あかねちゃんなんて、もういらない……消えちゃえばいい」  女の子はゆっくりと頭の上に石を振りかざした。茜音は動けないまま、その真っ黒な石を見上げている。  すると石はいつしか、強烈な輝きを放つ青い満月へとその形を変えていった。  青い光は、今やすっかりと茜音を飲み込んでしまっている。 ◇  目が覚めて、枕元のスマホに手を伸ばす。  時間は……朝の7時だ。部屋はひんやりとした静謐(せいひつ)な空気に包まれていて、茜音は寒さにからだをさすりながらベッドから起き上がった。  あれから3日が経っていた。会社にはもう行かなくていいのに、普段と起きる時間は変わらない。日常が失われたことに理解が追いついていない気もする。  岩崎の説得もあり、一応1ヶ月の休職という形にはしたが、もう会社に戻るつもりは無かった。後日面談をした上で改めて退職を伝えることとなるだろう。  葉月にあったことを伝え、会社を辞めると言ったら、「撤退することも、ひとつの大きな勇気である」と答えた。 「でも、いきなり無職になっちゃった。蓄えもそんなにあるわけじゃないのに。だから葉月くん、私のこと養ってくれる?」  冗談めかしてそう聞くと、葉月は珍しく真剣な表情で眉をひそめた。 「僕の図書館バイトの薄給で、茜音を養えるであろうか。いや、もっと他の仕事を掛け持ちせねばなるまい」  そう言っていきなりハローワークへ向かおうとしたので、慌てて止めた。  冗談が通じなく、真面目すぎるところが葉月らしいと言えるが、そういう葉月の性格が茜音は好きだったりもする。  ジャージに着替えると台所へ行って、朝食を作った。  昨日の晩に炊いておいたご飯に生卵を乗せ、出汁から作ったお味噌汁に加えて冷凍庫にあった鮭を焼く。追加できんぴらごぼうも。なにせ時間だけはたっぷりとある。毎日慌ただしく朝食も食べずに家を飛び出し会社に向かった頃が、もはや懐かしくも感じてしまう。  食事を終えて食器の後片付けをしながら、今日これから何をするかぼんやり考えているとチャイムが鳴った。  図書館が今日は休館日だから葉月が来たんだろう、そう思った。ふきんで手を拭って玄関に向かい、疑いもなくドアを開ける。  だが、そこに立っていた男を一目見た瞬間、茜音は心臓が止まりそうになった。  それは、フードを深く被ったパーカー姿の染谷だったからだ。
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