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「あれ、河西ちゃん。気分でも悪いの?」
こわばった顔に気づいたのか、酔った部長が馴れ馴れしく肩を掴んで顔を寄せてきた。酒臭い息に思わずむせそうになる。
「ついつい飲み過ぎちゃった?」
「ち、違いますから。部長、これってセクハラですよ」
なんとか笑顔を作り出し、場の空気を壊さないよう冗談ぽくそう言いながら部長から距離を取ったが、そんな茜音の態度が気に入らないのか部長は顔をしかめて、けっと吐き捨てた。
「違うの。これは男女問わずかわいい部下への愛情表現なの。まったく面倒な時代になったもんだなあ」
ふてくされる部長の機嫌は取っておかないと。茜音が6年間会社で働いてきて培った本能的とも言える模範解答が瞬時に口から出る。
「そうでしたか。じゃあ部長の愛情、しっかり頂いちゃいますね」
「なんだ、わかってるじゃない。俺はなあ、これでも河西ちゃんのこと、ずいぶん買っているんだぜ? 本当にキミは優秀だ。部内で一番かもしれん」
「ありがとうございます。じゃあ、お礼にもっとビールはいかがですか?」
「おう。まだまだ飲み足りねえぞ。次は焼酎がいい。河西ちゃんも当然付き合うだろ?」
送別会は深夜まで続き、茜音もさんざん飲まされた。結局、裏原と話をすることはなかった。別れの挨拶さえ覚えがない。店の外に出ると、雪は止んでいたが路上にはかなり積もっており、そして空を見上げれば夜空にいつしか青い満月が煌煌と輝いていて……。
それから、の記憶がすっかり抜け落ちている。記憶を失うほど酔っていたはずはないのに、なぜだかわからない。いったい、私はどうしちゃったんだろう。
バスルームのドアがばたんと開く音で、深く考えに耽っていた頭は飛び起きる。
パンツ姿で現れたその男に茜音は唖然とした。同期入社の染谷隆弘だったからだ。
染谷は茜音を見ると、いかにも気まずそうに濡れた髪を掻き上げた。
「いやあ、参ったなあ。まさか河西とか」
茜音とは少し距離を置いて、染谷はベッドの隣に腰を下ろした。その童顔だが整った顔はすっかりしょげ返っていて、がっくりと頭を垂れている。わかっていても、聞かずにはいられなかった。
「これって、どういうこと?」
「どうって……見た通りでしょ」
「私たち、その。した?」
「まあ、したんだろうなあ」
「はあ……」
ため息をつくと幸せは逃げていくという言い伝えを茜音は信じていたが、どうしてもつかざるを得ない場合だってある。しかも、心の底から大きなため息を。
「染谷くんさあ、私をここに連れ込んだわけ?」
「おいおい、待ってくれ。そんなこと俺がするわけないだろ」
「まあ、そうだよね。先月結婚したばかりなのに」
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