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◇  ホテルの外に出て、そこが吉祥寺東側の裏通りだったことに気づいた。  駅周辺は街の人気度を裏付けるように華やかな飲食店やショップが立ち並んで賑わいを見せているが、大通りの向こう側に入ると途端に様相が異なり、細い通りに点在するキャバクラやホテルなどが、いかがわしい雰囲気を漂わせている。いわば吉祥寺の裏の顔だ。地元民である茜音も殆どここに立ち入ることはなかった。  空は早朝の薄い青空が広がっていたが、路面には昨日降った雪がびっしりと埋まり、なにかのオブジェのように雪の大きな塊が通りのあちこちで存在感を放っている。冷たく澄んだ空気に茜音も漸く目が覚めたような気がした。  滑る足元に気を配りつつ駅方面へと歩きながら、染谷はずっと肩を落としてうなだれていた。 「それで、理央ちゃんにはライン、なんて返したの?」 「まだ何も。どう言い訳すればいいかさっぱりわからないし。既読はつけちゃったけど。ああ、既読つけたってことは、知らんぷりしてるってことだから……」 「状況は、より悪化してるわね」 「なあ頼むよ河西。こんな時、どうすればいいのか教えてくれ」 「正直に、浮気しちゃいましたって告白するしか、カードは残されてないんじゃない?」 「冗談はやめて。ああ見えて理央のやつ、家ではめっちゃ怖いんだ。ほんのちょっとしたことでスイッチが入ったら最後、猛烈に怒鳴るは本気で殴るわで大変な騒ぎになってしまう。浮気したなんて言ったらマジで殺されるかも」 「ふうん。理央ちゃんてそんなタイプには見えないけど。新婚早々なのに染谷が恐妻家になっていたとは驚き」 「ああ、俺。もう、終わったわ……」  すっかりしょげ返る染谷を見ているうちに、さすがに気の毒になってきた。昨夜どんな過ちがあったにせよ、ふたりとも覚えていないから、どちらが悪いとも判断しようがない。それに茜音だって、仲の良い理央から憎まれるのは嫌だった。 「じゃあ、こういうのはどう? すっごく世話になった裏原さんに誘われて仕方なく飲み歩いた。あまりに飲みすぎて意識を無くし、気づいたら朝になっていて、どこかの飲み屋でぶっ倒れてた、とか」 「裏原さんを利用するのか。でも俺、裏原さんとは殆ど付き合いないんだよなあ。最後まで正体不明だったし、あの人」 「そんなこと理央ちゃんは知らないでしょ。それに退職した裏原さんと会うことは、おそらくもうないんだから理央ちゃんも確かめようがないし」 「なるほど。さすが河西。ずるがしこさに関しては天下一品だな」 「ちっとも嬉しくないんだけど」 「いやでも、そう話してみるわ。なんか、ほっとしたら腹減ってきた。天下一品のラーメン食いに行く?」 「こんなに朝早くから、開いてるわけないでしょ」  染谷の問題が片付いたところで、ちょうど駅前まで来ていた。まだ朝早いせいか、大雪のせいなのか人通りは少ない。  茜音は、「じゃあ、頑張ってリスク回避するんだぞ」と言って改札に向かう染谷と別れた。武蔵関方面に発着するバス乗り場に行くと誰もいなかった。時計を見ると6時半だ。一度家に帰ってシャワーを浴び着替えてから会社に行っても、十分間に合うだろう。  ひとりでバスを待っていると、途端に後悔の念が波のように押し寄せてくる。  でもこれは仕方がなかったんだ。ちょっとした軽い事故に遭ったようなもの。私も染谷も、今後一切このことに触れなければ、何も起きないし、誰も傷つけない。そう、すっかり忘れちゃえばいいこと。ただ、それだけ。  ポジティブな考えは後悔の波を押し戻していく。茜音はいつもそうやって気分を切り替えてきた。今回もきっと大丈夫。  しかしバスは積雪の影響か、出発時刻になってもやってこない。早く帰って熱いシャワーを浴びたいのに。今は凍えるような寒さへの嫌悪感が、茜音の心を占めていた。  もう一度、時刻表に目を向ける。その時、白く染まった視界の向こうで黒い人影がぼやけて見えた。  茜音は瞬きして焦点を合わせる。道路を挟んだ向こう側に立っているその男、その姿。はっきりとは確認できないが、それは裏原のようだった。なんら特徴や表情を持たないその男は、身動きもせずにそこに立って茜音をただ見つめていた。
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