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 お昼を告げるチャイムがオフィスに響き渡る。  茜音は取り敢えず席から立ち上がったものの、食欲はなかった。かと言って何も口に入れなければ午後の仕事に影響が出そうだ。近くにあるコンビニでパンと野菜ジュースでも買ってこよう、そう思う。  エレベーターホールに行くと、満面の笑みを浮かべた理央がいた。どうやら茜音を待っていたらしい。 「河西さん、お昼一緒に行きましょう!」  そう言われて茜音は「うん、いいよ」と答えざるを得なかった。本当は断りたかったが、昨夜染谷と寝てしまったことに理央に対しての気まずさがあったのかもしれない。それにこのタイミングで無下な態度を取ってしまうと、(いぶか)しく思われてしまうような気もした。  会社から5分ほどのところにある、ふたりともお気に入りの定食屋は珍しく空いていた。普段なら行列ができるほどの人気の店だが、大雪の影響があるのかもしれない。  二人掛けのテーブルに着いて、日替わりメニューを頼む。注文を受けた店員が去ると、理央は改めて茜音の顔をしげしげと見つめた。 「どこか具合でも悪いんですか? 顔色が良くないですよ」 「いいえ、大丈夫。昨夜ちょっと飲みすぎちゃって」 「そうなんですか? 河西さんてどんなに飲んでも全く酔わない酒豪だって聞いてましたけど」 「私もそう思ってたんだけどね。もう年なのかな」 「なに言ってんですか。28なんて、まだ全然若いでしょ。ところでその飲み会って、誰かの送別会でしたよね」 「うん。裏原さん」  その名前を口にすると、ぞっとした気分になった。今朝バス停に立つ私をじっと見つめていたのは、確かに裏原だった。あれは偶然なんかじゃない。私が染谷とどこへ行っていたかを俺は知っている、何もかもお見通しだ。その目は確かにそう語っていた。  道路を挟んで凍りついた視線を交わしていると、目の前をトラックが通り過ぎた。トラックが去った次の瞬間、裏原の姿は消えていた。まるでその姿が幻だったかのように。だが、強い意志を持った裏原のその視線だけは残されていて、それは漸く到着したバスに乗り、アパートに帰ってシャワーを浴びている時でも、茜音の頭から消えることはなかった。そう、今だって。 「その裏原さんの送別会、うちの旦那も参加してましたよね。河西さんと旦那、同じ部署だし」  さりげない理央の言葉に、どこか心がざわついた。苦し紛れのあのプランで、染谷は理央を説得できたのだろうか。そういえば、今日は会社で染谷を見かけていない。 「う、うん。染谷くんならいたよ。なんでも裏原さんにはとても世話になっていたみたいで」 「やっぱりそうなんですか。実は朝帰りだったんですよ、あいつ。連絡も全く寄越さないで。問い詰めたら、恩人の送別会で朝までずっと付き合って最後には意識なくした、って言うんですよね。これって河西さん、どう思います?」  理央は目をまん丸にしながらぷっとほおを膨らまして、可愛げのある怒りをあらわにする。だけど見た感じ、それほど強い不満を感じているようでもない。ちょっとした愚痴を吐き出したい、そんなふうにもうかがえた。 「まあ、仕方がないと思うよ。意識無くすほど飲むのはどうかと思うけどね」  食事が運ばれてくる。今日の日替わりは和風ハンバーグだった。箸を持つが相変わらず全く食欲が湧かない。  理央のほうは、わあ、おいしそう!と顔を輝かしながら、小さく手を叩いている。早速ハンバーグを口に運びながら、さりげなくこう言った。 「でも、それって嘘なんですよ」 「えっ、嘘って?」 「恩人と飲み歩いて倒れたのは、嘘。私には、わかるんです」  ふいに訪れた動揺が悟られないように、茜音も平心を装いながら添え物のサラダを食べた。だけど、心臓はどきどきしている。 「なんで、嘘だと思うの?」 「さあ。女の勘ってやつですかね」 「なるほど。それは当たりそうだけど」 「あいつ、絶対女とホテルに泊まっていたんですよ。間違いないです」 「それは、ちょっと考えすぎじゃないの? 染谷もさすがに理央と結婚したばかりで、いきなり浮気はしないでしょ」 「だけど、したんですよ」  茜音が目を上げると、理央はいつしか箸を止めてじっと茜音の顔を見つめていた。それは狼狽えてしまうほど、笑った目つきで。 「私、相手の女を探し出します」 「探してどうするの?」  そう聞くと、理央はふっと表情を消した。それと共に、周りのざわめきや店内を流れていた古い歌謡曲も音をひそめる。 「殺すんですよ。その女を」
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