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 茜音(あかね)は冬が嫌いだった。  12月は寒い、1月はとても寒い。そして2月は寒さを通り越して痛い。  8月生まれの夏女のせいなのか夏はどんなに暑くても平気だが、毎年冬の寒さはどうしても耐えられない。  2月始めのその日は早朝から東京にはこの冬初めての大雪が降り、茜音はうんざりしながら会社へと向かうバスの車窓からすっかり白銀の世界へと変貌した街の風景を眺めていた。  雪は蕩々(とうとう)と降り注いでいる。天気予報によると雪は夜更けまで収まらず、都内でも10cm程度は積もる予想らしい。念のため厚底のシューズを履いてきたが、それで持つのか不安になる。  今夜は会社の送別会があることも、茜音の心を憂鬱にさせた。同じ部署だが、殆ど話したこともない年の離れた中年の男性社員の送別会。数ヶ月前に異動してきたばかりだが、誰とも自ら馴染もうとせず、また仕事に打ち込む気配すらなく、結局今月末で退職すると言う。  実際、裏原(うらはら)というその社員について茜音は何も知らなかった。所属する営業管理部は多忙を極め、またもともと会社自体が体育会系の所謂ブラック体質なこともあり、ごく親しい同僚以外とはほぼ話す機会がない。印象の薄い裏原のその顔さえ、曖昧と言える。それでも、送別会には出席しなければならない。それが会社のルールというもの。  混雑した車内は、冷たい湿気で満ち溢れていた。乗客が吐く白い息が窓を曇らせ、傘から滴り落ちる水が床を濡らし、身に纏わり付いたじっとりとした水の感覚が更に気分を不快にさせる。  かなり遅延してバスが吉祥寺の駅前に到着すると、乗客たちは息苦しさから逃れるように車外へと吐き出されていった。  電車も遅れているせいで長い行列ができている、人びとの無言のため息に満ちた北口駅前を背に、茜音は傘をさすと信号を渡り、ぬかるんだ大通りの歩道を滑らないよう慎重に歩いて行く。吉祥寺駅から歩いて10分ほどのところに茜音が勤めるソナック保険会社西東京支店が入ったオフィスビルがある。  普段なら住んでいるアパートから会社までバスを使って30分ほどだが、今日は大雪のせいで家を出てから優に1時間を過ぎている。朝からすっかり疲れ果てていた。  大型家電店や飲食店が入ったビルが建ち並ぶ見慣れた大通りは、すっかり白く染まっていて、降り落ちる大粒の雪で目の前の視界ですら霞んでいた。その光景を見ていると、どこか遠い場所にでも来たような不思議な感覚に囚われる。 「河西さん」  不意に名前を呼ばれて振り返ると、白く染まったこの世界にぽつんと立ち尽くす猫背の男の姿があった。激しい雪のなか傘もささずにびしょ濡れで、その額には薄くなった髪の毛がぴったりと張り付いている。目が小さくて顔は平べったく、まるで能面のよう。それは裏原だった。酷い有様にも関わらず、どこか口元に薄ら笑いを浮かべているような気すら感じる。
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