ドーナツをあなたと

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 過去に戻ってやり直す事ができるなら、今の私には切実にやり直したい選択がある。これはそんな話だ。    同棲している和樹(かずき)と一緒に食べようと、ドーナツを買ってきた。私の好きなクリームがたっぷりはいったイースト系、和樹が好みそうなチョコがたっぷりとかかって、ナッツが散りばめられたもの。あと一つはオールドファッションだ。一人一個半の計算。三つ目を半分こするつもりだが、「それは美夜(みや)が食べていいよ」というセリフをほんのり期待してるのはご愛嬌だ。  夕食は和樹の好物のサーモンとほうれん草のグラタンを作った。あとはオーブンでタイミングを見て焼けばいいだけにしてある。  和樹が覚えてるかどうかは微妙だけど、実は今日は記念日だった。一緒に暮らし始めてちょうど一年目になる。そういうわけで、ちょっとだけ夕食に気を使ってみたのだった。   さて、時刻は二十時過ぎ。  いつもなら和樹から「帰るよ」というメッセージがあってもおかしくない時間だが、未だメッセージはない。今日は残業だろうか。通勤は一時間ほどかかるので、帰ってくるのは少なくとも二十一時にはなる。  そして、ここで私のお腹が小さく鳴った。グラタンを焼いて先に食べようかとも思ったけど、今からオーブンを予熱してとなると少し時間がかかる。おっと、今日は別の選択肢があるじゃないか。そう、ドーナツである。  せっかくだから和樹に焼き立てのグラタンを。そんな言葉を免罪符に、私はオールドファッションを袋から取り出し口に入れた。  まずサクッとした歯ざわり。それから優しい砂糖の甘さとほろりと崩れるしっとりした生地。このシンプルさが魅力なのだ。  半分残しておこうかと一瞬だけ頭に過ぎったけど、気づけば食べ終えていた。ドーナツとは恐ろしい食べ物だ。くわばらくわばら。  とりあえず空腹は満たせたので安心と、しばらくスマホを見て過ごしていた。そして二十一時に近づいた頃、ようやく連絡が来た。 「🐯(トラ)ブルで遅くなってる。もう少しかかるので先に食べてね」   お互い仕事をしているので夕食は時間が合えば一緒に食べる。今回は先に食べてとメッセージまで頂いているのでグラタンを焼けば良いのだが、ここで私はいらないことを考えてしまった。すなわち、「和樹と一緒にドーナツを食べるなら二十三時を超えそうだ」と。  果たして私は、自分の分に買っておいたイーストドーナツを食べることにした。  口に入れた途端にふんわりとした生地の中から、コクがあるけど甘すぎない生クリームが溢れてくる。このふわふわで甘々の幸せな味わい! やっぱりイーストドーナツしか勝たんと再認識し、あっという間に食べ終えた。  そして、ご存知だろうか。  イーストドーナツはふんわり軽くて美味しいのだけど、唯一の弱点があった。そう、もっと欲しくなるのだ。 「しまった」  ここで私は過ちに気づき、一人なのに思わず声に出してつぶやいた。軽さ対策に、オールドファッションを用意しておいたのに、先に食べてしまった!  ――さて、同棲一周年というのは、誕生日とかそういったスペシャルなものと比べるといかがなものだろうか。そんなありふれた一日を特別視するのはどうなんだ?  自分が言い訳モードに入っていることを自覚しつつ、視線は和樹にと買ってきたチョコドーナツに注がれていた。  ごめん、和樹。  心の中で残業中の恋人に謝ると、チョコドーナツにかぶりついた。しっとりしたケーキ生地に苦味のあるチョココーティング。香ばしいナッツの風味も合わさって、少し大人っぽい味わいを堪能した。  その後、私はドーナツの紙袋を丁寧に畳んでゴミ箱の奥深くに処分したのだった。  和樹が二十三時過ぎに帰ってきた。 「おかえり、ご苦労さま」  帰宅に合わせてグラタンを焼いて、和樹を迎える。 「ごめんね、遅くなって。これお土産」  そういって差し出されたものは、先程お隠れになっていただいた紙袋と同じものだった。そう。ドーナツである。 「こんな時間になっちゃったけど。お昼にカレンダー見て思い出してさ」  なんと! まさか和樹も今日が記念日だと気づいていたとは! 「気づいてたの?」 「思い出しただけだけどね。初めてデートしたのって今日だったよね。映画見て、ドーナツ食べてさ」  私は動揺を表に出さないように、覚えていてくれてありがとう、とドーナツを両手に掲げるように受け取ったのだった。  さて、話は冒頭に戻る。  付け加えて説明しておくと、和樹が買ってきたドーナツは五個入りだった。まさかさっき三つ食べましたと言える訳もなく、私の胃の中には都合四つのドーナツが収まっていた。  あの時、一番最初にお腹が鳴った時の選択でドーナツではなくグラタンを焼いておけば! それなら、八個のドーナツを前に「今日は二個だけにしておこう」と自制も効いたに違いないのに!  今日は体重計には乗らないでおこう。そう決めて、焼け石に水とは知りながら、鏡の前で踵上げを繰り返すのだった。  了  
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