海の娘と船

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 もう、何日食べていないのだろう。  年頃の娘としては、徐々に皮と骨ばかりになりつつある身体が恥ずかしい。だが、それよりも自分の命を繋ごうとして、飢えて死んだ父母やまだ幼子で耐えきれなかった弟妹たちを思えばどこからともなく涙が生まれる。  人は飢え、水も思うように取れずともまだ体には残っているのかと驚く。  髪も母が島一番の美人だったのを受け継いで、青々と美しく、妹が姉様の髪を梳くのは楽しいと無邪気に喜ぶほどの艶もあったはずなのに、いつの間にかその片鱗も消え失せるほど傷んでいる。  もちろん、島は海が間近であり成人をすれば容赦なく髪を痛める仕事もすることがある。それは承知の上だった。  だからこんな風に見た目も醜く、まるで都や大きな寺社にあるという地獄絵図の餓鬼のような、幽鬼のような存在として生きるつもりはなかった。 「···父様、なんでおじ様に年貢米を分けちゃうのよ」  あの強欲な父の弟は、この島が塩を納める代わりに代官から米などを借りていることも住人だから分かりきっているのに、父に取り立てられている米が足りないからくれと強請ったのだ。  人のいい父は弟一家が未進で子が売り飛ばされるのは可哀想だと言って、差し出してしまった。必ず返すなどと言いつつも島の他の人達は知っている。彼らの一家は我が家よりも貯め込んでいて、本当なら助けなど不要なくらい代官からも贔屓にされているのだと。  それでも父も父を信じる母も噂は噂だと、取り合わず結果島の外のあちこちが不作だから、その余波で米が足りなくなった。借りている米の利息も要求され家族が一年を越すために必要な食べ物が不足した。  それは他の家も似たり寄ったりだったが、父の弟に貸した分だけ我が家はより一層足りなかった。冬まではそれでも保ったのだ。しかし、春には食べ物も尽きてしまい、弟が「お腹がすいた」そう言って動かなくなった。  次に妹がもう力の入らない身体で横たわり、母の作る汁物を食べる幻を見て動かなくなった。二人が動かなくなると母は泣いて、泣き疲れたように弟妹の元へと行ってしまった。  最後に父は済まないと何度も私に詫びながらみんなの元へと行ってしまった。  何とか彼らを土に還し、私もあとは先祖代々の塩田を捨て、島を出ていくか。あるいは代官の所従などになり、自由のない扱いを受けて生きるか。  運が良ければ妾として、ある程度自由が許されることもある。たまたま島の外からやって来た人がそんな話をしていたらしいが、もう女らしい肉付き以前の問題なのだからきっとそんな道もない。  このまま父と母が大切にしていた塩田を奪われ、妹のように家族でご飯を食べる幻でも見て家族の元へ行くだけだろう。 「それなら、海が見たい」  もうまともに水もご飯も摂っていないせいか、独り言は囁くような大きさでしか音にならない。  力がなかなか入らない足を叱咤しつつ、塩を作るためにいつも父と母と通っていた海を目指す。時折力が抜けて転けそうになるが、何とか海辺についた。  厳しくも優しい海。母に叱られた日も、ここで一人泣き。弟や妹が産まれた喜びを叫んだのもこの海だ。 「なんで、人の良い父母が死なないといけなかったんだ」  なんであの強欲な父の弟は、飢えて死んだ私の家族を尻目に家族で楽しげに過ごしているのか。どこまでも美しい青の海を睨みつけるように見つめた。 「よお、そこのひょろっこいの。ワシらと行くか」  しばらくここで天からの迎えを待っていたら、目の前に私たちの晴れ着くらい立派な衣を纏った粗野な男が立っていた。年の頃は父と同じくらいか。  とっさのことで私は阿呆のように口を開けて呆けていると、返事もしないうちに米俵のように担がれどこか。いや、この男の船へと運ばれた。 「おーい、誰かこの娘っ子に飯食わせてやれ」 「はあ、頭領。また、人拾ったのかよ」  男の声に反応したのは私より少し年上に見える少年で、口では憎まれ口を叩いているものの男の指示には素直に従っている。 「ほれ、娘っ子。······いや、餓鬼のような見た目すぎてどっちか頭領が言わねーとわかんねーな。ほら、今朝出発した港のおカミさんが握ってくれた握り飯」  これくらい食えるだろう。そう言いながら彼は差し出してくれたが、何せ久しぶりに見た握り飯だ。食べられるだろうか。 「阿呆!」 バシッ 「いってー!僧侶殿何すんだよ!」 「拙僧には、医術の心得がある。これほど肉のない身体の娘子にいきなり握り飯を渡すのは、危険なことだ。バカ者」  突如、この船に場違いな黒衣と袈裟を纏った御仁はお坊様らしい。何やら訳ありでこの船に乗り、私の話を私を連れて来た男、頭領から聞いたらしく心配をして見に来てくれたようだ。 「娘子。まずは、不味くともこれを食べなさい」  そう言って差し出されたのは、ほとんど水の粥だった。 「私は握り飯も与える価値もない、ということでしょうか」  思わず父の弟一家や代官の顔を思い浮かべてしまった。だが、これは私の早とちりのようでお坊様は優しい笑みを浮かべ緩く左右に首を振った。 「娘子。そのように卑下せずとも良い。そなたはしばらく何も食べておらぬ様子。ならば、最初は水を多く摂らねば臓腑が握り飯に耐えられぬのだ。······拙僧も都で出家する前は、医術を生業にしていたが寺の者が善意で施したもっと米の多い粥を飢えた者たちに与え、臓腑が驚き亡くなる者が後を絶たなんだ」  だから、まず臓腑を食べ物が受け入れられる身体に戻すのが大切だ。そう言われると最早お坊様がこちらのために心を砕いてくれていることは疑いようがなかった。 「そーそー、この僧侶殿は、わざわざ蝦夷辺りには医術の心得のある僧侶は少なかろうって東に行くのにこの船乗ってきた変わりモンだから、気にせずゆっくり食べなよ。頭領もアンタみたいな子を海辺で見かけちまったからほっとけなかったんだろうよ」  かく云う自分も拾ってもらった身なのだと、握り飯を差し出してくれた彼は言った。  なぜ頭領が私を拾ってくれたかは分からない。だけど、父母を思って海辺で朽ちようと考えていた私を拾ってくれたのだ。その厚意に感謝し、ゆっくりとほとんど水の粥を口にする。  それは普段なら物足りない、貧相だと思ったかもしれない。けれど、水は身体の水気が失われ、荒れ果てた唇を潤し、喉から臓腑へと緩やかに吸い込まれていくのが分かる。 「なんでだろ。美味しい」 「あったりめーだろ。娘っ子!そんなに飯食ってねー身体じゃ何食ってもうめーよ。おい、坊主!娘っ子の寝床用意してやれ。僧侶殿は、次の港まで娘っ子の飯の面倒を頼みます」 「はーい。ったく頭領は人遣い荒いだよなぁ」  そう言いながら握り飯の彼は、船の中へと入っていった。 「わかり申した。娘子。しばしの間拙僧の指示通りに食事をするのだ。そなたが生きておるのは、御仏の御慈悲だろうからな」  そんなやり取りから、私の船での生活は始まった。  私は皆のおかげで、娘らしい肉付きを取り戻し、元来の明るさや負けず嫌いが戻って来た。そうして、ある日頭領の指示で陸で仕事をはじめることになるとは、まだ水の多い粥を懸命に食べるこの頃の私には知らない未来だ。
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