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とある祝日の午前零時ちょうど、車輪の音を響かせながら走る電車内に乗客は二人しかいなかった。私と、その斜め向かいに座る金髪のホスト風の男。
毎晩この時間に乗り合わせる顔なじみの乗客たちの姿はない。私は彼らに深夜残業常連組として勝手な親近感を抱いていたのだが、どうやら祝日にまで残業を強いられるような人間は私だけだったようだ。
私はポケットからスマートフォンを取り出し、画像フォルダを開いた。画面に表示されているのは、日本や世界にある美しい風景や街、ホテルの写真。いつかは絶対に訪れたいと思っている場所の写真だ。残念ながらその“いつか”はまだ来ていない。今の会社に勤めている限りは絶対に来ないだろう。
私は憧れと諦めがまじりあったような複雑な気持ちで画面を眺めていた。
『まもなく○○駅。○○駅。お出口は左側です』
車内にアナウンスが流れ、電車がゆっくりと減速する。
男が席から立ち上がりドアの前に歩いていく。その際に淡い水色の長財布が彼の尻ポケットから落ちた。男は気づかぬ様子で扉の前に立っている。
「あの、落としましたよ」
なぜ女物の財布を持っているのだろう。一瞬そんな疑問が頭をよぎったが、私は彼に声をかけて床の上の財布を拾いあげた。そして、悲鳴を飲み込んだ。
彼の財布に触れた瞬間、ホスト風の男が自分に殴りかかってくるイメージが脳裏に浮かんだからだ。耳の奥で男の怒鳴り声と、女のすすり泣く声がこだまする。強い怒りと恨みの感情。生々しい暴力のイメージが私の身体を貫いた。
「返して」
声をかけられてはっと顔を上げると、苛立った表情の男が私を見下ろしていた。
「あ…、すみません」
男は差し出された財布をひったくるように受け取ると、礼も言わずに行ってしまった。男の背中が小さくなる。電車は大きなため息を吐き出して扉を閉めた。
電車が加速するとともに駅のホームが遠のいた。車窓には右から左へつぎつぎと流れていく街灯の白い光と、私の青ざめた顔が映っていた。
なるべく他人の物には触れないようにしていたが迂闊だった。
私は他人の持ち物に触れることで、物に残った持ち主の思念──残留思念を読み取ることができる能力を持っている。いわゆるサイコメトリーというやつだ。
漫画やドラマに出てくるサイコメトラーは、その能力で殺人事件を解決したり、困っている人を助けたりしているが、私には絶対に無理だ。
私の場合は持ち主の主観的な記憶の映像──先ほどであれば財布の持ち主の彼女が、男から殴られる映像を見てしまうのだ。VRによって彼女の視点から記憶を追体験していると考えてもらえばわかりやすい。
そのためもしも私が被害者の遺留品に触れば、私は犯人に殺される瞬間を追体験してしまうし、犯人の遺留品に触れた場合は、私は人を殺す瞬間を追体験してしまう。そんなもの、絶対に見たくない。
殺人事件の捜査に役立てるなんてもってのほかで、普段の生活の中ですら、できれば使いたくないのである。他人の物には触らないようにしていたのに、どうして今日に限って…。
妙な親切心を出さなければ、あの男が暴力によって恋人から財布を奪っていたことなど知らずに済んでいたのに。胸中には腐った肉のにおいを嗅いだ時のような不快感が広がっていた。
と、ポケットの中でスマートフォンの通知音が鳴った。
開いてみると、大学時代のあまり親しくない友人からのメッセージだった。『大好きな彼と結婚しました。ハワイで挙式した時の写真です』という言葉とともに、教会の前でポーズをとる夫婦の写真が添えられていた。彼女と最後に連絡を取った日付を見ると、ちょうど二年前だった。
私は背もたれに身体を預けため息を吐いた。電車はスピードを緩めることなく夜の街を駆けぬけて行く。黒い車窓には、丸い眼鏡をかけた地味で疲れた顔の女が映っている。
来栖ナオ。二十六歳独身。ブラック企業勤務。家族や親戚、なし。まめに連絡を取り合う友人、なし。彼氏、なし。
──結婚の見込み、なし。
そんな言葉が頭の中につぎつぎと浮かんでは消えた。
連日の深夜残業に加え、先ほどの財布の件、そして追い討ちの結婚報告。私の心は限界に来ていた。
私は鞄を抱きかかえて呟いた。
「もう疲れた…。ここじゃない、どこか遠くの世界に行きたい…」
その瞬間、私の周囲に白い光がきらめき始めた。光は徐々に強さを増して、夜の街や車内の風景を飲み込んでいく。まるで何百ものスポットライトで照らされているかのような、目も開けていられないほどの眩しさである。電車の車輪の音は次第に遠ざかっていった。
私は鞄に顔をうずめ、そして気を失った。
遠ざかる意識の中で誰かが私の名前を呼ぶのを聞いた気がした。
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