夜に沈む

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 それから十分ほど歩いた先に宿屋はあった。  壁はほかの家と同じように漆喰で白く塗りつぶされており、アーチ状の窓が一階部分に二つ、二階部分に三つ開いていた。看板らしきものはどこにも無い。事前に知っていなければそこが宿屋だとは気がつかなかっただろう。入口の脇に植えられたブーゲンビリアの樹は、宿を訪れる客たちにピンク色の花吹雪を舞わせていた。  開けっ放しの入り口からは、老眼鏡をかけた宿屋の主人が新聞を読んでいる姿がみえた。  宿に足を踏み入れるとひんやりと涼しい空気が身体を包んだ。熱を通しにくい石造りの家はアズーロのような温暖な地域に適しているらしい。  主人が視線だけをこちらに向けて言った。「いらっしゃい」  「おっちゃん、三人で泊まれる部屋ある?」  「えっ、三人一緒に泊まるの?」  驚いた私が尋ねると、真白と黎は二人そろって首を傾げた。その眼には“夫婦なんだから当然だろう?”と有無を言わさぬ圧があった。  「いえ…なんでもないです」  知り合って間もない男二人と同じ部屋に泊まるのはさすがに気が進まないが、これ以上食い下がっても無駄だろう。私はしぶしぶ受け入れた。  三人のやり取りを見ていた主人が怪訝そうに眉を顰める。「あまり夜中にうるさくされると困るよ。ついこの間も、うちに泊まった夫婦がベッドを壊したばかりなんだ」  「もちろんですよ。僕たちは節度ある観光客の夫婦ですから安心してください」“夫婦”という言葉をやけに強調しながら真白が言う。  「ならいいけど。お嬢ちゃん、ここに三人の名前書いて」主人がそう言って私にペンと記入用紙を差し出した。  私はそれを受取ろうと手を伸ばしたところで、思わず固まってしまった。 この世界に来る前のことを思い出してしまったからだ。私の手はペンを受け取ることなく、中途半端な位置で制止した。  あの時のように見たくないものが見えてしまったらどうしよう。そんなことはない、大丈夫だとどれだけ自身に言い聞かせてみても、私の手は金縛りにあったかのようにぴくりとも動かなかった。  「おっちゃん、俺が書くわ」黎が横から手を伸ばし記入用紙を受け取った。  怪訝な顔でこちらを見る主人から隠れるように、私は黎の斜め後ろに移動した。「ありがとう」と小声で彼に耳打ちする。  黎は私の方を振り返り「惚れた?」と言って微笑んだ。
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